「ムルフェ(刺身入り冷やしスープ)」は昔、火を焚くことのできなかった木造船で漁師たちが手軽に作れて、素早く食べられるように考案されたファーストフードだった。しかしその誕生の背景は、そんな単純な話ではない。ご飯を主食とする長い間の伝統、獲れたての魚を生のままで食べるという独特な刺身文化、そしてトウガラシを発酵させて作ったコチュジャンという三つの条件が絶妙に結合しているからだ。ムルフェは世界のどこにもない韓国ならではの独特な料理だ。
新鮮な刺身と各種海産物、シャキッとした食感の生野菜にコチュジャンベースの冷たいだし汁が妙味なムルフェは、韓国人に好まれている夏のスタミナ料理だ。
国際連合食糧農業機関(FAO)から出されている世界漁業・養殖業白書(SOFIA)によれば、韓国の1人当たりの海産物の消費量は毎年世界上位圏に入っている。これは国土の三面が海に囲まれている半島国家という環境のせいもあるが、それだけでは韓国人の海産物の消費量の多さを十分に説明することはできない。韓国よりももっと広い海を持つ国が世界にはたくさんあるからだ。
海産物の消費が多い韓国
韓国人の海産物消費量が毎年世界の上位になる理由には、韓国人の独特な食文化も一役買っている。まず韓国人は海苔、ワカメ、昆布など世界で最も多様な種類の海藻類を食べている。さらにはたくさん輸出している。
海藻類は海で育つ植物だ。海に海藻類が多いということはそれだけ多種多様な生物が暮らしている健康な海だという証拠だ。朝鮮半島の海は陸地に近く水深もそれほど深くないので海藻類の自生に適した条件を備えている。日差しの届かない深海や陸地から遠く離れ無機物が十分でない海には、海藻類は自生できないからだ。韓国人は昔から海で簡単に手に入る海藻類を使った多彩な料理を作ってきた。他の国では海の雑草と認識されてきた海藻類が韓国人には大切な食材だった。そして現代になると韓国人の健康的な食卓を構成する重要な要素となっている。
二つ目の理由として魚を火で調理せずに食べる食文化をあげることができる。遥か昔から現在まで魚を生のままで食べることが一般化されている国は韓国と日本程度だ。西洋の場合、ペルー生まれの料理でセビーチェという魚を生のままで食べる文化が一部では残っている。しかしセビーチェは、厳密にいえば魚を生のままで食べているわけではない。セビーチェはライムやレモンに海産物を漬けておいてから食べるマリネのことで、その過程で熱の代わりに酸により魚の表面に変化を起こして柔らかくする。生のように見えても実際には生ではないということだ。これと比較して韓国と日本では魚をはじめとする様々な海産物を生のままで食べる方法が昔から受け継がれており、これは韓日両国の食文化の中で重要なカテゴリーとなっている。このように魚を生のままで食べる調理法を韓国では「センソンフェ」、日本では「刺身」とそれぞれ呼んでいる。
複合的な味を楽しむ
魚を生で食べる調理法において韓国と日本とでははっきりとした違いがある。日本では新鮮な魚を三枚におろし後、適度に熟成させてから柔らかな食感と深い味わいを楽しむ。ご飯に酢などを混ぜて腐敗を防いだ酢飯をつくり、その上に刺身などをのせて作る料理が寿司だ。熟成をへて柔らかくなった刺身は酢飯によく合う。
韓国のセンソンフェは食べるポイントが日本とは異なる。熟成させた刺身よりは硬直が進行中の魚、つまりコリコリとした食感を好んだ。その代わりに多様な調味料と野菜を付け加えた。日本が醤油とわさびなど最小限のソースを使うことで魚本来の味を引き出すことに重点を置くとすれば、韓国は醤油、味噌、コチュジャン(唐辛子みそ)、ごま油、ニンニク、トウガラシなど多様な副材料を加える。そしてそのすべてをサムチュやゴマの葉などに包んで一緒に食べる。ちょっと見たところ、日本よりは繊細さに欠けるように見えるかもしれないが、そうではない。人間の味覚は反復する行為を通じて意図された方向に発達する。魚とソース、そして野菜との調和を追求した韓国人の味覚は複合的な味を楽しむようになったのだ。それで刺身を食べる日本人のテーブルはシンプルな反面、センソンフェを食べる韓国人のテーブルは非常に複雑でバラエティに富んでいる。
韓国の漁師のファーストフード、ムルフェ
朝鮮時代(1392~1910)まで韓国人の漁業はもっぱら木で作られた木造船で櫓をこいだり、風を利用する無動力船が中心だった。近代以降、エンジンを搭載した動力船が導入されたが、船舶の材質は木造という事実に変わりはなかった。動力船が導入されると以前よりもはるかに遠海まで漁に出られるようになった。遠い沖に出るほど操業時間は長くなり、船内で食事を解決しなくてはならなくなった。
冷たく甘辛いスープは、夏に食欲が落ちたときにピッタリだ。各種の刺身と海産物、そして野菜を平らげたら、残ったスープに好みに合わせてご飯や麺を入れて食べるのも美味しい。
韓国人の主食は伝統的に米か麦などを焚いたご飯だった。ご飯は穀物の皮だけを取り除き実をそのまま熱した料理だ。小麦やそばの実を粉砕して加工した粉食に比べて調理が簡単で栄養の損失も少なかった。しかし一つだけ欠点があった。米と麦に含まれた炭水化物は非常に固い構造で結合している。そこに熱と水分を加えると固い構造が砕けて柔らかく変化する。これをゲル化という。すなわち米のゲル化が進行してご飯になるのだ。しかし、ご飯を常温で保管すると水分が蒸発して再び固くなってしまう。
ここで昔の韓国の漁師の生活想像してみよう。朝早くから遠海まで魚を釣りに出かける際には、ご飯をたくさん持って行ったことだろう。海の仕事は荒々しくすぐに空腹を感じてしまう。家から持参したご飯はすでに冷たくなっており、そのまま食べるには少々固い。火を焚いてお湯を沸かして固くなったご飯を柔らかくすることもできるが、木造の船では火を使うことは危険な行為だ。それに船の上では各種おかずを広げて食事を楽しむという状況でもなかった。そこで冷たい水にご飯を入れ、おかずとして捕れたての新鮮な魚をぶつ切りにしてのせた。そこに一匙のコチュジャンを入れて淡白な味を補った。操業中のわずかな時間にセンソンフェ入りのご飯に水をかけ、その器を持ってササッと流し込むように食べていたムルフェは、漁師たちが船上で空腹を満たす為に考案されたファーストフードだったのだ。
はっきりした各地域の特色
冷たいだし汁と新鮮な魚の刺身がよく調和したムルフェは、漁師の食べ物から発展して今日では海沿いの観光地でよく目にする料理となっている。冷たいだし汁に好みに合わせて刺身と新鮮な野菜、ご飯か麺を入れて、かき込むように食べるムルフェは、暑い夏にピッタリの料理となった。
最近では海辺の観光地などで名物料理として有名になった。素朴な料理として始まったムルフェだが、今ではだんだんと華やかになり多種多様に変身している。基本的には季節の魚や海産物、野菜または果物を用いるということに大きな違いはないが、韓国でムルフェはムルフェというカテゴリーを超えて、各地域で、各料理店で個性的な別の料理へと変化を遂げている。
済州島では内地とは違い、味噌を入れて作っただし汁でムルフェを作る。スズメダイは骨付きのまま切って使うので歯ごたえがあり、淡白な刺身と濃厚な味噌の調和が絶品だ。
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江原道嶺東地方で始まった「江原道ムルフェ」は、人々がよく想像するムルフェのイメージそのままのムルフェだ。冷水や冷たいだし汁にチョコチュジャン(唐辛子みその酢味噌)と酢、砂糖などを入れて作ったソースを加えたもので、辛さと甘酸っぱさが調和する最も大衆的な味だ。具となる刺身は主に淡白なムシガレイなどを用いているが、江陵では細長く切ったイカを入れた「イカのムルフェ」も有名だ。また束草で始まり全国チェーン店を展開する「青草水ムルフェ」ではアワビ、ナマコ、ホヤ、タコ、トビコなど、季節の旬の刺身に、牛肉のだし汁などが合わさった「海鮮ムルフェ」のメニューが超人気だ。人々はこのムルフェを食べるために一年を通して、長い待ち時間にも関わらずこの店を訪れる。
コチュジャンベースの独特なムルフェとして「浦項式ムルフェ」がある。このムルフェの大きな特徴は、凍らせただし汁をクラッシュして器に盛ることだ。各種刺身と野菜の上にかき氷のように高く盛られたコチュジャンベースの甘辛いだし汁をからめて食べるスタイルだ。東海式のムルフェが酢の味を生かしただし汁だとすれば、浦項式のムルフェのだし汁はコチュジャンの味を生かしたとろっとした食感が特徴的だ。ちょっと見にはムルフェというよりはピビンフェに近い姿かたちだが、クラッシュされただし汁のおかげで食べ終えるまで冷たさが維持される。
大部分の地域でムルフェにコチュジャンベースの出し汁が用いられているのに対して、済州島では味噌を使かっただし汁を主としている。地理的な条件からコチュジャンを求めるのが難しいからだ。ムルフェだけでなく、全般的に済州島ではコチュジャンよりは味噌味の料理が多い。特にスズメダイを入れた「スズメダイのムルフェ」が有名だ。味噌で味をつけたムルフェに山椒の葉を少し入れて特有の香りを生かし魚の生臭さを失くす。また鼻にツンとくる氷酢酸を一滴落とした後に麦ごはんを入れて食べる。魚は骨ごと切って入れるので見た目は大雑把だが、淡白な刺身と香ばしい味噌の味が調和した「済州ムルフェ」には、本土とは全く違った個性と魅力がある。
このように季節と地域によってそれぞれ異なる魚を使い、コチュジャンに砂糖、ゴマ油、酢、きな粉などを加えて特別なソースを作ったり、水の代わりに専用のだし汁を使う店も増えている。このような多様性から、それぞれが「ムルフェの元祖」だと主張している。だがムルフェは、そのいずれも元祖ではないと同時に、それぞれが元祖だとも言えるミステリアスな料理だ。これは韓国料理の持つ重要な特徴でもある。一見単純で素朴な料理だが、知れば知るほど複雑かつ繊細だ。兎にも角にも韓国の夏はムルフェがあって幸せだ。