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トラン(里芋)の隠れた神秘

Essential Ingredients 2021 AUTUMN 35

トラン(里芋)の隠れた神秘 トラン(里芋)の隠れた神秘 じゃがいものように柔らかく、粘液質を含み独特のぬめりと食感をもつ「里芋」は、秋に出会う古くからの食材だ。知れば知るほど神秘的な里芋の話をしよう。 ➊ 主に畑で育てる里芋は太い茎の先に大きな葉が一枚ついている。里芋は捨てるところのない有益な食材だ。よく干した里芋の葉は、夏にサム(包み野菜)やナムルにして食べる。里芋の茎は、短時間乾してからしてから表皮をむいて茹でた後、エゴマと一緒に炒めるとシャキッとした食感の美味しい一品になる。里芋は、特有のぬるぬるとした食感は好き嫌いが分かれるが、他の食材にはない特別なものをもっている食材だ。 ➋ 里芋の断面から出てくるぬめりの成分は「ムチン」という多糖類粘液物質で、たんぱく質を分解して消化と吸収を助ける働きをする。ムチンはウナギやレンコン、長芋にも含まれているが、胃と腸の潤滑剤の役割を果たす。 ➌ 剥いた時に痒みを感じる里芋は、皮を剥く前に沸騰させた米のとぎ汁で茹でることで簡単に皮が剥ける。里芋に含まれているショウ酸カルシウムが小さな針状の結晶をしており、それが皮膚に刺さることで痒みを誘発し、えぐ味を出す。 ⓒ신혜우 食べ物は謎だらけだ。一つの食材の中にはいろいろな事実が隠されている。里芋の韓国名「トラン」から考えてみよう。皮を剝いた表面の形は「カムジャ(じゃがいも)」に似ている。それなのになぜ「トラン」という名前で呼ばれているのか。 「トラン」が朝鮮半島に初めてやってきた当時「カムジャ」という名前はなかった。それで「土から生まれた卵のような形をした」という意味で「トラン(土卵)」と呼ばれるようになったという。記録上「カムジャ」が朝鮮半島に初めて入ってきた時期は、朝鮮時代の1824年だ。「トラン」はそれより600年ほど前の高麗時代の医書『郷薬救急方(1236)』にすでに登場している。同じ頃の文人イ・ギュボ(李奎報)の詩文集『東国李相国集(1241)』には、田舎で里芋汁を作るという内容が出てくる。 里芋汁はぬるぬるする里芋特有の食感をよく味わえる料理だ。牛肉と大根、里芋を入れて醤油で味をつけた里芋汁は、主に秋夕(旧暦の8月15日)に食べる季節の伝統料理で、淡白ながら深い味わいがある。 ⓒ KOREAN FOOD FROMOTION INSTITUTE 解毒のための知恵 じゃがいもと同じように里芋も塊茎だ。塊茎とは栄養素を貯蔵するために茎が膨らんだ形態の植物を意味する。里芋は韓国の名節、秋夕(チュソク、旧暦8月15日)に食べる季節の伝統的食材だ。具体的な調理方法は1920年代、パン・シニョン(方信栄、1890-1977)の調理書『朝鮮料理製法(1917)』に出ている。里芋をよく洗い、まず一度茹でる。醤油味の汁か牛肉の汁に里芋を入れて煮るのだが、その際にだし昆布を少し切って入れる。ソウル式の里芋汁の調理法だ。全羅南道ではすったエゴマを入れた香ばしい汁に、里芋を入れて煮る。 汁の中の里芋は、一見じゃがいもと大して差がないように見える。しかし、口に入れて噛んだ時の食感がじゃがいもとは全く違う。ぬるぬる、ふわふわとしている。里芋にはぬるっとした粘液質成分が豊富だからだ。このような食感のために里芋は苦手だという人もいるが、このぬめり成分はほとんど健康に有益だ。里芋の中の粘液質を構成する多糖類は、腸内の有用な餌となるプレバイオティクスとして機能する。これら多糖類は水を簡単に吸収して膨らむ。そのおかげで、ムコ(粘液)多糖類の作用をして、口の中に入れた時に水なしでも溶ける口腔崩解錠を作ることができるという研究結果もある。 里芋は水分以外のほとんどの成分がでん粉だ。里芋に含まれるでん粉の粒は小さいほうなので消化しやすいものの、生では食べられない。針のように鋭いシュウ酸カルシウムの結晶が入っているからだ。シュウ酸カルシウムの結晶は里芋の葉や茎にもあり、タンパク質の分解酵素と一緒に貯蔵されているので生で食べるとえぐ味がする。まず針のような結晶が皮膚の粘膜を刺して傷をつける。さらに酵素がその傷に作用して炎症・痛みを引き起こす。また里芋の下ごしらえをするときに汁液が手につくと痒くなるので、調理の際にはゴム手袋をはめて触るようにする。これも同じ理由からだ。 このような毒性は里芋のようなテンナンショウ(天南星)属の植物に共通な特徴だ。そのまま食べると粘膜を刺激する痛みと痒みを避けられないので、動物たちはテンナンショウ属の植物を好まない。それで島でヤギを放牧してもテンナンショウ属の植物だけは生い茂るという話もある。しかし、雑食動物の人間は別だ。炎という強力な道具で動植物を調理して食べることのできる人間にとっては、里芋の毒性も十分に克服可能な問題だった。 里芋や里芋の茎を前の日から水に浸けておいたあと、茹でてあく抜きをする。このように加熱すると里芋の中の酵素は変性して作用しなくなり、シュウ酸カルシウムの結晶は水に溶けてなくなる。完全になくなったというわけではないが、刺激が減り食べるのにちょうど良い味わいとなる。このような処理の仕方についてよく知らずに、秋に里芋や里芋の茎を買って、そのまますぐに里芋汁を作ってしまうとえぐ味が残り食べられなくなる。秋夕に食べる里芋汁には、食材の毒性を除去する方法を身に付けた昔の人々の知恵が込められている。 一口大に切った里芋、しし唐辛子、ニンニクを一緒に砂糖醤油だれで煮込んだ韓国風の里芋煮つけだ。煮汁をよくからめて食べるとより味に深みが増す。 ⓒ 10000recipe 里芋のえぐ味をとるためにさっと茹でてから、ポテトチップのようにそのままスライスして焼くと、サクッとした食感と香ばしい味わいの里芋チップになる。低カロリーなのでダイエットおやつとしてお勧めだ。 ⓒ momcooking 様々な料理とデザート 「アルトランのようだ」という言葉がある。中身が充実していて「手入れした里芋のようだ」という意味だ。「アルトラン」というのは、表面を始末した里芋のことを指す。接頭語の「アル」というのは「アルパム(栗)」「アルモム(丸裸)」のように外皮などの、すべてをはぎ取った状態を言う。じゃがいもやさつま芋が登場するまで里芋は、農家にとって非常に重要な救荒作物だった。それで中身のぎっしり詰まった「アルトラン」が実益の代名詞になったと言える。 歴史のある食材にも関わらず韓国では、里芋の消費は主に秋夕の頃に限定される。9月になると市場には里芋があふれるが、秋夕が過ぎた途端に目につかなくなる。昔は里芋汁以外にも、蒸したり、焼いたり、松餅の具にしたり、醤油漬けにするなど、いろいろな料理をして食べられていた。里芋を蒸して皮を剥き、もち米の粉と混ぜて油で焼いたトランビョン(土卵餅)を作って食べたり、他の野菜と混ぜてチヂミ風にして食べたりもする。最近では市場で里芋自体よりも、ユッケジャンに入れる里芋の茎を探す方が簡単だ。ユッケジャンは、皮を剥いて干した里芋の茎を茹でて数時間水に浸けておきアクを抜いた後に、いろいろな野菜や牛肉と一緒に煮込む。里芋の茎の歯ごたえと肉の食感との微妙な対比が、味を最大に引き立てる。 里芋の代表的な産地は全羅南道の谷城(コクソン)だ。全国の里芋農家の半分が谷城にあり、生産量では全体の70%以上を占めている。そのため谷城では様々な里芋料理が味わえる。エゴマの粉をたくさん入れて作ったエゴマ里芋汁は谷城を代表する料理だ。里芋の香りがエゴマ、牛肉とよく合う。澄んだ汁の里芋汁、蒸した里芋 、里芋チョンビョン(薄く延ばして焼いた菓子)、里芋のミスカル(粉状にして、蜂蜜などを入れて飲む飲料)、里芋のヌルンジ(おこげ)もお勧めだ。里芋パン、里芋スコーン、里芋クッキー、里芋チップス、里芋チョコレートチップのような加工製品も多い。最近では里芋を入れたアイスクリームとリンゴパイも登場した。里芋になじみの薄い若者層のために開発された菓子類だ。 里芋汁を食べたことのない若者でも、里芋の味はよく知っているだろう。里芋は熱帯アジアと太平洋諸島を原産地とするタロ芋の変種だ。タロバブルティーやタロミルクティーを飲んだことがあれば、それは里芋を食べたのと同じことだ。栽培地域と品種により白色になったり、紫色になったりするが、香ばしくて甘い味と柔らかな食感はタロ芋と里芋に共通な特徴だ。アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、太平洋のハワイ島まで世界全域にタロ芋を利用した料理とデザート、加工食品がある。タロ芋の様々な変種を味わいながら地球を一回りできるほどだ。 里芋汁を食べたことのない若者でも、里芋の味はよく知っているだろう。里芋は熱帯アジアと太平洋諸島を原産地とするタロ芋の変種だ。タロバブルティーやタロミルクティーを飲んだことがあれば、それは里芋を食べたのと同じことだ。 里芋は熱帯地方で栽培されるタロイモの変種で Taro, Kalo, Talo, Dalo, Dasheen, Eddoなど、様々な名前で全世界の食卓に上っている。「熱帯性のジャガイモ」と呼ばれるタロイモは湿気の多い気候でも良く育ち、泥地でも繁殖する。里芋にあまり馴染みのない若者世代にも、タロパウダーと牛乳を混ぜて作るタロイモミルクテイーは知られている。 © Sutterstock 里芋の花のメッシージ 「トラン」は「トリョン(土蓮)」とも呼ばれる。厚く、大きな楯形の葉がまるで蓮の葉のように見えるので、つけられた名前だ。里芋を見ると、田舎の道を雨の日に里芋の葉を傘のようにかざして駆けだした幼い頃の思い出が浮かぶ人も多いだろう。その反面、里芋の花を見た人は多くない。里芋の花は100年に一度咲くといわれるほどに貴重な存在だからだ。熱帯植物なので温帯気候の韓国で花が咲くのは難しいといわれてきた。ところが、2000年代の半ばからは全国各地で毎年里芋の花が咲き始めている。朝鮮半島の気候が高温多湿な亜熱帯気候に変わってきたためだ。今こそ地球温暖化の危機に素早く積極的に対応しなければならない。里芋の花が私たちに送るメッセージでもある。 チョン・ジェフン鄭載勳、薬剤師、 フードライター シン・ヘウ申恵雨、 イラストレーター

静寂に包まれる大学街のワンルーム

Image of Korea 2021 AUTUMN 38

静寂に包まれる大学街のワンルーム 静寂に包まれる大学街のワンルーム 「ワンルーム、2K、自炊可能間借り、フルオプション・ルーム、新築ワンルーム…」 大学街の裏通りの塀や電柱、街路樹、バス停留所、商店のシャッターなどに貼られた張り紙が風に揺れている。しかし、マスクをつけて行きかう人々は何の関心も払わない。大学街周辺は静寂に包まれてれている。 コロナ禍の長期化により大学街の賃貸住宅のオーナーは、いずこも困難に陥っている。非対面授業への転換により大学街から学生の姿が消え去り、それとともにワンルームの需要も減少、あるいは完全に無くなってしまった。中国人留学生はずいぶん前に自国に帰り、それまで部屋を使っていた地方出身の学生たちも帰省し始めた。対面授業が再開され学生たちが戻ってくるのを待つ間、部屋代は全般的に大きく下落した。 昔は地方から上京した学生たちのほとんどが大学周辺に下宿した。間借りして一人自炊する生活に比べて、下宿はいろいろと利点が多かった。家族と離れて知らない土地で暮らさなくてはならない学生たちにとって、下宿屋のおばさんが作ってくれる温かいご飯と豊富な種類のおかずを食べることができ、人情に篤いおばさんたちは、洗濯や掃除までしてくれた。学生たちはそんなおばさんの優しさの中で寂しさや孤独を癒し、安らぎを得ていた。同じ下宿に暮らす先輩・後輩はまるで兄弟姉妹のように親しくなった。下宿暮らしには、農耕社会の大家族制度の共同体の情緒が残っていた。 しかし、そのような風景はだんだんと思い出の中に消え去っていった。1980年代以降、全国的に大学と大学生の数が急激に増加し、一つ屋根の下に家族のように暮らす下宿では、学生の需要に対応することが難しくなってしまった。さらに過去の家族的な共同生活より、個人のプライバシーをより重要視する社会の雰囲気が加わり、一人暮らしが増えたことで大学街にも全世帯ワンルームの新築物件が建ち始めた。それにより大家と学生の家族的な人間関係は、賃貸人と賃借人の関係に取って代わってしまった。さらに最近では、新型コロナウイルスによるソーシャル・ディスタンスまで加わり、大学街のワンルーム界隈から若者の姿が消えてしまった。 南向きの小さなベランダと必要最低限の台所、狭くとも清潔な浴室、クローゼットと机、そして小さなベッドが一つ… 若者の夢と苦悩と情熱に満ちていたワンルームは、ガランとしたまま、強烈な夏の陽射しに占有されている。夏が終わり2学期が始まれば、この部屋に希望を抱いた新しい住人がやって来るだろうか。 キム・ファヨン金華榮 文学評論家、大韓民国芸術院会員

千年の都の美しい波動

On the Road 2021 AUTUMN 40

千年の都の美しい波動 千年の都の美しい波動 悠久な歴史と美しい文化を秘めた都市、地を掘ると文化財が出てくるためちょくちょく工事が中断されるという古代王国の首都慶州。様々な遺跡や遺物からかつての燦爛たる文明を想い描くことができるところである。 慶州市の陽北面龍堂里にある国宝第112号-感恩寺址(カムンサジ)の東西三層石塔は、高さ13.4mで、統一新羅時代の石塔の中でも最も規模が大きい。感恩寺は新羅30代文武王が三国統一を完成した後に着工した寺で、今では地上にこの塔だけが残り、慶州の東側の海を見守っている。 ビート・ジェネレーションを代表する作家の一人であるジャック・ケルアック(Jack Kerouac、1922-1969)──彼が晩年、仏教に傾倒していたことを思い出しながら、かつて仏教文化の心臓部だった慶州へと向かう途中、私は鼓動が高鳴った。彼の小説の題名はまさにこの紀行文の標題と同名である『On the Road』であった。 慶州を一言で表す言葉は「千年の都」である。992年間の首都、正確に言うと千年に8年足りないわけだが、あまりにも美しい都なのでそれはさておくことにしよう。紀元前57年から936年まで同じ国の名の下で暮らしていた人々。その国の名は「新羅」である。歴史上、千年も続いた国は数少ない。長い歴史性部門で記録を保有している、ビザンティウムと神聖ローマ帝国を有するローマ帝国が思い浮かぶぐらいだ。あぁ、そういえばファラオ王朝も相当なものだったな。ところが、アジアの東の端にあるちっぽけな土地にも千年間、輝かしい文化を遺した国が存在していたのだ。 言い換えれば、慶州は当時、コンスタンティノープル(現在のトルコの都市イスタンブルの前身)や長安(西安)、バグダッドのような華やかで有名な大都市のようなリーグでプレーした選手だったと見なすことができる。慶州は古代シルクロードを通じて、アラビアを経由してヨーロッパと交流していた中国とも活発な交流をしていたため、新羅人の墓からはローマングラスが出土されることもある。広い視野を持ち、広い競技場を使い、世界の市民としての存在感を持っていた国だったのだ。近代になって帝国主義の狼藉や戦争でほとんどが崩壊し失われたこの国に、今でも新羅文明の痕跡が残っているというのは本当にありがたいことだ。 扉道を通り過ぎるとアーチ型の天井がある円形空間の主室が現れる。蓮の花の形をしたドーム形の天井と本尊仏を取り囲む様々な仏や菩薩、守護神などから、古代の建築術と造形美がうかがえる。現在は保存の問題で観覧客は主室に入ることはできないが、通路からガラス越しに観覧できる。 © 国立文化財研究所、ハン・ソクホン 秘めやかな美しさ 私はまるで船に乗って海を渡ってきた異邦人探検家のように、東側の海から慶州に入って文武大王を称える初の遺跡地である「感恩寺址」へと足を運んだ。この寺のネーミングは、死んだ後も龍になって国を守るという意志を明らかにした王の恩徳を「フォロー」し、暇あるごとに「いいね」を押し続けるという意味である。 感恩寺址は少し特別な寺である。外見も観光名所特有の過度な華やかさがないせいか、ややもすれば捨てられた寺院のようにも見えるほどだ。入場料もなく、管理人も見当たらない。一見古い双塔だけが残っているただの寺院の跡地に見えるかもしれないが、この双塔は長い間この場所にそびえ立っている。古代の感恩寺の下には海水が流れ、寺の下には龍が出入りできる水路が設計されていたそうだ。この二つの塔が龍になった王を守っているのか、それとも龍が二つの塔を守っているのかはよく分からないが、塔の地味な美しさが私の目を引き付け、視線をそらしたくないぐらいだった。 この塔を解体・復元する過程で塔の中から発見された舍利荘厳具には、新羅の精巧な金属工芸術がぎっしりと詰まっていた。これらの宝物はソウルの国立中央博物館に保管されているのだが、我を忘れるほどに美しい。塔の外観の素朴な美しさとは対照的である。塔の中に隠されていたこの宝物が、新羅の燦爛たる文明を造り上げた基本技だったのではないかという気がした。華やかな外見をしていながらも表には出さない謙遜さ。まるで真の美しさはあえて包み込まなくても自ら光を放つという教訓を私たちに示しているようだ。 私は新羅の秘めやかな美しさをもっと見たくて、慶州の中にさっそく飛び込んだ。先ずは、慶州へ向かう海風を遮る「吐含山」が、そして、その山の奥深い場所に「石窟庵」が現れた。慶州の美しさを担っているトップ2の代表選手は、何といっても「佛国寺」と石窟庵である。佛国寺の付属石窟として建造されたと伝えられる石窟庵は、ローマにあるパンテオンと類似した構造で設計されている。そのような見事な建築技術の交流が古代からあったということにも驚かされたが、それよりも私は目の前の美しさを鑑賞するのに精一杯だった。 美しい人造石で造られた洞窟の中にある石窟庵は、仏教国家だった新羅の深い仏心により造られた仏教美術で、建築美の絶頂ともいえる。ここには雨水も滲み込まず、苔も生えない。石を掘って石窟造ろうとしたところ、花崗岩があまりにも硬く、組み立て式の建築技法でこの人工石窟を造ったと伝えられるが、ここが中国やインドの仏教石窟とは異なる点で、そのためか非常にユニークな魅力が感じられる。私がそこを訪ねた日、石窟庵へとつながる山道には濃い霧が立ち込めていた。石窟庵の内部は文化財保護のためにあちこちが覆い隠されていて、観覧客は列になって通り過ぎなければならず、じっくり時間をかけて観ることはできなかった。ところで、あえて長い時間をかけて観る必要はないという気がした。その美しさは、にわか心に抱かれるようなものだったからだ。強烈な彫刻芸術の美学が波動のように広がり、しばらくの間眺めていただけなのに、ご本尊の仏像の表情がすっかり網膜に焼き付いてしまったような気がした。 慶州市進峴洞、吐含山の中腹にある石窟庵。ここに保存されている釈迦如来坐像は、仏教美術史において実に優れた傑作として高く評価されている。前室と円形主室の間、そして扉道から眺めた姿。石窟庵は8世紀の半ば、統一新羅時代に約20年かけて築造され、古代シルクロードを通じて流入したギリシャ・ローマの建築様式に仏教美術が融合されたもので、花崗岩でできた石窟である。 © 国立文化財研究所、ハン・ソクホン ビンテージの美学 弾みのついた私は、次なる美しさを求めて「佛国寺」へと向かった。大雄殿の前の双塔を見ながら、同じ場所に長い歳月たたずむ塔からビンテージの美学を感じた。新羅が滅亡した後、次の王朝でも地方の主要拠点としての役割を果たしながら存続してきた慶州を貫くキーワードは、まさに「ビンテージ」だったのではないだろうか。かつての燦然たる栄光と長い年月を耐えてきたものの美しさが同時に感じられた。この二つの塔は、どれほどの時空を超えてきたことだろうか。王朝の栄枯盛衰を目の当たりにし、ここを通り過ぎた彼らの人生の屈曲も見たであろうこの塔は、今や多くの観光客を見下ろしている。 双塔だけではなく佛国寺の構造も驚くほど美しいバランスを生み出している。佛国寺の宝物とされる多宝塔の四方に獅子像が配置されていたのだが、そのうち3体は盗まれてしまい、現在は3体しか残っていない。釈迦塔は補修工事中に落とされ、塔の中の舎利箱も割れるなど、様々な波風を凌いできたのである。海千山千すべてを経た遺物は、まるで煩悩を超越したかのように淡々としていた。何かを耐え抜いたものはとても蠱惑(こわく)的だ。侵略を受けても、土地を奪われても、地震が発生しても、盗掘されても、遺物が盗まれ、ひいては毀損される危機に直面した時も、文化財を守ろうと必死に努力してきた人々の心が輝かしく感じられた。釈迦塔の中からは当時の木版印刷術を計り知ることのできる陀羅尼經も発見されている。これも新羅の誇らしい宝物のひとつである。印刷術が人類の文明の発展にどれほど拍車をかけたのか、あえて説明する必要もないだろう。 ビンテージ遺物が放つ時空の大きさと深さに圧倒されされながら仏国寺を出ると、今度は文学館が現れた。慶州出身のキム・ドンニ(金東里、1913-1995)とパク・モクウォル(朴木月、1915-1978)の作家を記念するところだ。この二人は、かなり美しい文章を書く作家として知られている。新羅の文化と韓国の近代文学は一見関係のないように見えるが、私は一つの接点があることに気がついた。新羅時代に造られた「聖徳大王神鐘」という巨大な梵鐘の金石文には、次のような文章が刻まれている。 「当時の人々は富を忌み嫌い、文才を愛した」 私はこの文章を、新羅の人々がお金を追求する代わりに文学を愛したという意味だと解釈した。このように美しい思想を持っていた国だったからこそ、これほど美しいものをたくさん遺すことが可能だったのではないだろうか。幼い頃から慶州の文物を見て育ったであろう作家たちがうらやましかった。ここで育ったおかげで、彼らは審美眼を自ずと身に着けることができたのだろう。 そんなことを想像しながら歩いていると、ふと朴木月詩人記念館から流れてくる肉声の自作朗読が聞こえてきた。イギリスの詩人ウィリアム・ワーズワス(William Wordsworth、1770-1850)のように、広義のロマン主義の詩を書いてきた詩人の叙情には、人生と自然に対する洞察が圧縮されていた。慶州の宝物は遺物にとどまるのではなかった。彼らの作品もまた長く存続しながら輝いていたのだ。私の文学紀行は文学館での短い訪問で終止符を余儀なくされたが、より深く探究したければ、二人の作家の生家や主要作品に登場する地域などが見学できるコースもよく整っているのでお勧めしたい。 吐含山西側の中腹にある佛国寺は、石窟庵とともに新羅仏教美術の精髄を究めている。精巧な築石で造成された敷地に大雄殿や極楽殿などの殿閣、釈迦塔、多寶塔、白雲橋、蓮華橋などが築造されている。1995年に石窟庵とともにユネスコの世界文化遺産に指定された。 約3万8,000坪の平地に23基の円墳がそびえる大陵苑は、慶州最大の古墳群。慶州市内の真ん中にある皇南洞に位置し、時空を越えた神秘的な場所である。 統一新羅時代に鋳造された聖徳大王神鐘は、高さ3.66m、鐘の上部の直径2.27m、厚さ11−25cm、重さ18.9トンの梵鐘で、現存する韓国最大規模の鐘である。鐘の一番上にある音筒は、音色を遠くまで響かせるためにつくられたもので韓国の銅鐘だけに見られる独特な構造であり、奥ゆかしい余韻が長く残る神秘的な鐘音を作り出す。 東里木月文学館は2006年、慶州出身の小説家金東里(キム・ドンリ、1913-1995)と詩人朴木月(パク・モクウォル、1915-1978)を称えるために、吐含山の麓に建てられた。韓国の現代文学に大きな足跡を残したこの二人の文人の原稿や作品集、動画などとともに銅像が展示されている。彼らの生家や作品の背景となる場所へのツアーも企画されている。 東里文学館の中に復元されている小説家金東里の創作室。東里木月文学館は、東里文学館と木月文学館に分かれている。 小説家金東里の肉筆原稿。復元された彼の創作室には、彼が生前使っていた万年筆や眼鏡、本棚、執筆ノートなど様々な遺品が展示されている。 きらびやかな鐘の音 文学館を離れて「大陵苑」に辿り着いた私は、巨大な墓が描くスカイラインの曲線模様の美しさに見惚れ、時空で自分の座標を失ってしまいそうな気がしたので、墓の中へと避難した。墓は室内が観覧できるように設計されている天馬塚の内部だった。足先がひんやりしてきた。慶州にいる間ずっと大雨に見舞われたが、足元が濡れるのも気づかないぐらい、慶州は新鮮な見どころを絶えず提供してくれた。 墓の中は神秘的でありながらもおぞましく、きっと薄暗いだろうと思ったが、かえって美しかった。亡き者が葬られていた場所からは、没落というよりはむしろ安らぎが感じられた。あの至誠溢れる葬儀に動員されたであろう多くの人々のことを考えると、昔の人々の勤勉さに言葉を失うほどだった。自分の怠慢さを反省しながら墓から出た。次に慶州市内の皇南洞(ファンナムドン)にある繁華街に向かった私は、現代につくられた繁華街と古代の墓のギャップにすこし戸惑ってしまった。死の真っ只中に生の真っ只中があるとは──。生と死の関係は調和なのか不調和なのか。現代と古代の隔たりは一体どう受け止めればいいのだろうか。慶州は様々な、そして明瞭な対照だけで自らの独特な存在性を惜しみなく顕わしている。 短い旅に終止符を打つために最後に訪れた場所は、先に述べた聖徳大王神鐘の前だった。ずいぶん久しぶりに慶州を訪れた私が、再会を待ち望んだ「神秘」だった。この鐘の表面に刻まれた半分ほどつぶれている文字、あの例の「富を忌み嫌い、文才を愛した」という、その美しい文章が私の目の前に鮮やかにホログラムで浮かびあがるようだった。それから私は、この鐘の持つ独特な共鳴の音を思い起こした。読者にこの鐘の音を直接聞かせてあげられないのが残念だが、この巨大な梵鐘から鳴り響き渡る音の現象は、まるで現代の波動力学を習熟しているかのようで鳥肌が立つ。もし慶州を訪れることがあれば、この雄渾な鐘の音をぜひ聞いてほしい。この鐘の音が持つ波動は、慶州の持つビンテージの美学をよく表している遺物や、文学に対する理解の敬虔さや、世界と交流していた古代の大都市を守護する龍が、自らの燦爛さに感嘆しながら発する咆哮(ほうこう)のセレモニーのようなものかもしれない。間接的にでもその波動をぜひとも味わってほしい。美しさに陶酔した波動が永遠に続きますように。 パク・サン朴祥、 小説家 アン・ホンボム安洪範、 写真

若いイギリス人女性の見た北朝鮮

Tales of Two Koreas 2021 AUTUMN 37

若いイギリス人女性の見た北朝鮮 若いイギリス人女性の見た北朝鮮 外交官の夫について2年間北朝鮮の平壌で暮らしたイギリス人女性。社会主義体制の裏面で、実際に見聞きし感じた人々の日常の姿と、彼らと交わした心温かい交感は、帰国から2年が過ぎた今も、依然として彼女の記憶の中に息づいている。 30代のイギリス人女性が経験した北朝鮮は、考えていたよりも多感で親切な所だった。わずか2年ほどの平壌生活だったが、彼女の価値観を大きく変えてしまうには十分な時間だった。 外交官の夫と共に平壌で2年間暮らした後、イギリスに帰国したリンジー・ミラーさんは、自分が想像していたよりもはるかに複雑で摩訶不思議な国、北朝鮮の姿を多くの人に伝えたいとこの本を出した。彼女はもう自由を当然のものとは思わなくなったという。 © Lindsey Miller 作曲家であり音楽監督のリンジーミラー(Lindsey Miller、33)さんは、2017年から2019年まで外交官の夫と共に北朝鮮に暮らし、そこで出会った人々の写真とエピソードをまとめて5月に本にして出版した。200頁ほどのこの本のタイトルは刺激的だ。『北朝鮮、唯一無二の地』(North Korea: Like Nowhere Else)。 北朝鮮に到着するまで彼女は、その地に暮らす人々をまるで冷たいロボットのようだろうと想像していた。特に外国人にはとてつもなく冷淡で、敵対的であろうと案じていた。しかし、平壌で2年暮らして帰国した今、そのような考えは偏見だったとミラーさんは言う。彼女が出会った北朝鮮の人々は、友好的で温かな人々だった。 「外国人は北朝鮮にたいして、軍事パレードや集団体操、ミサイルというような先入観を持って眺めます。それらを通じて北朝鮮の人々に対しても非常に厳格で、堅苦しいと考えるのです。しかし、彼らも私たちと同じ人間です。おじいさん、おばあさんは孫を可愛がり、家族を愛する平凡な人々なんです」 平壌周辺はもちろん、田舎道でも村々を行きかう軍用トラックに大勢の軍人たちが乗っている光景をよく見かけた。ミラーさんが見た軍人たちは厳格で恐ろしい存在ではなく、ただ微笑を浮かべ、挨拶も交わす普通の若者たちだった。 ⓒ Lindsey Miller 彼らは軍人である前に、平凡な20代初めの若者たちだった。彼女はこの写真を撮った瞬間を鮮明に記憶している。軍人たちと挨拶を交わし、彼らの中の一人が彼女に投げキッスをしたのだ。 確かな変化 ミラーさんは北朝鮮社会の画一化された雰囲気の中に、小さな変化を見つけた。ある日の午後、取り締まりと制裁を象徴する労働新聞社(朝鮮労働党)の前を、手をつなぎ歩いている若いカップルを見たのだ。彼女はその光景を写真に撮って本に掲載した。それだけではなく、以前には想像さえできなかった若者たちの姿をよく見かけた。幼い生徒たちは、アメリカのディズニーのキャラクターが描かれたカバンを背負って歩いていた。 「アメリカ文化の象徴であるディズニーのカバンを北朝鮮で見かけるなんて想像できますか。北朝鮮の国営テレビでもディズニーのアニメ映画を見ました。万感の思いになりました。私は北朝鮮の人々が、それらのものがどこから来たのか知っているのかが、気になりました」。 ミラーさんは自分の撮影した数千枚の写真の中でも、トラックに乗ってどこかに行こうとしている北朝鮮の軍人たちの写真が一番のお気に入りだ。この写真には彼女が北朝鮮とそこで暮らす人々をどんな視線で見ているかがよく表れている。多くの人々は北朝鮮の軍人だといえば、キム・ジョンウン政権を連想するだろうが、ミラーさんが直接見て感じた彼らは、軍人である前に平凡な20代初めの若者だった。彼女はこの写真を撮った瞬間を鮮明に記憶している。軍人たちと挨拶を交わし、その中の一人がミラーさんに投げキッスをした。周りの人々は屈託なく笑いだし、彼女も同じように投げキッスを彼に送った。 「私たちは北朝鮮にこのような日常があるということを想像もしません。軍服に集中しすぎるあまり彼ら自身を見ることを忘れているのです。私は北朝鮮に暮らしながら、彼らが誰なのか、どこから来て、家族と彼らの人生はどのようなものかを考えるようになりました」 住民たちとの接触 外国人居住者もかなり自由に平壌市内を歩き回ることができた。ショッピングをしたり、外食をしたり、道で出会った人々と比較的すんなりと話をすることもできた。驚いたことに多くの北朝鮮の人々は、基本的な英会話ができた。中には英語を話したくて自ら近づいてきた人もいた。その一方で観光客とは違う、外国人居住者が守らなくてはならない規則と制約もあった。バスやタクシーのような公共交通機関を利用することはできず、北朝鮮住民の家を訪問することもできなかった。 北朝鮮の人々といつでも自由に話ができるわけではなかった。実際に監視システムをずいぶんたくさん経験した。道で出会って自由に話をしていた人々が一瞬表情を変えて、突然その場を離れることがあった。周囲を見回すと必ずスーツを着た男性が立っていたものだ。平壌市内の商店もまた異邦人に対して歓迎してくれるわけではなかった。時々店の中に何人も客がいるのに、ミラーさんが入っていくと「営業は終了した」と断られたという。 ミラーさんが最も興味を抱いた対象は、平壌の若い女性たちだった。特に同年代の女性たちに関心があった。恋愛と結婚、キャリアについて彼女たちの考えが変わりつつあることに驚いた。 「私が会った平壌の若い女性たちは、結婚と出産よりも仕事とキャリアをより重視していました。結婚をしている私に子供がいないことにも、非常に関心を寄せていました。長時間働くのがとても大変だと話す女性もいました。結婚するのがイヤだと言う女学生もいました。もちろん平壌のエリート階層に属する女性たちの話です。私が北朝鮮で出会った人々の大部分が北朝鮮社会の上位権力階層であり、外部の人々と接触する機会も多く、経験も豊富でした」。 彼女は外交団地のある平壌市東部のムンス洞で暮らした。各国の大使館、国際機関、国際救護団体のある地域だ。規模は大きくなく、ときどき電力供給が円滑にいかなかったが、暮らしていくのにさほど大きな問題はなかった。衛星テレビを見ることができ、インターネットの接続も可能だったが、速度は非常に遅かった。外交団地の中には外国人学校もあったが、レベルは低く、大部分の外交官家族は子供たちをホームスクーリングしていた。 ミラーさんは北朝鮮に出発する前に、北朝鮮で最も多く使用されている外貨のドル、ユーロ、人民元などを準備してくるようにというアドバイスを受けた。ところが意外にも、しわくちゃのドル紙幣は受け取ってもらえなかった。到着直後に現地人のドライバーと一緒に空港駐車場の料金精算所で1ドルを渡したところ、しわくちゃで汚いと受け取ってもらえなかった。平壌で品物を買った後、お釣りの代わりにガムやジュースのようなものをもらうのはよくあることだ。デパートではおつりを北朝鮮貨幣のウォンで渡されることもあった。外国人たちはATMを使うことができなかった。そのため手持ちの外貨の現金が底をつくと、外国に行って来るという知人に調達してもらった。多くの外国人たちは、北朝鮮と中国との国境都市、丹東のATMで現金を引き出していた。 平壌の地下鉄駅に巨大な金正日総書記の肖像画が掲げられている。その下を通り過ぎることは、人々にとっては見慣れた日常の一コマにすぎないように見えた。 ⓒ Lindsey Miller 2018年秋のある日の午後、平壌市内の小さなアパートの情景だ。ミラーさんは北朝鮮の既存の世代が見て経験したことが何なのか、彼らが信じる北朝鮮の未来とはどんなものなのか、常に気になっていた。 ⓒ Lindsey Miller 2018年の閲兵式で、金正恩総書記の前を過ぎて平壌の通りを行進していく女性軍人たちが、カメラを見て手を振っている。群衆は彼らに風船と花を渡して歓呼している。ミラーさんはこの写真を本の表紙に使用することに、さほど迷いはなかったと言う。 ⓒ Lindsey Miller 短かったが強烈な記憶 2018年の米朝首脳会談は、ミラーさんに最もエキサイティングで強烈な記憶を残した。彼女はすでに外信ニュースを通じてそのニュースに接していたが、北朝鮮の放送は会談のニュースを一日遅れで発表した。知り合いの北朝鮮の人々がミラーさんのところに来て、何が起きているのか聞きたがり、説明してくれと言った。平壌市内には「私たちは一つ」というスローガンとともにキム・ジョンウン総書記とトランプ大統領が握手をしている場面を写した大型の写真がかけられた。 北朝鮮の人々が韓国の歌を聞いたり、テレビ番組を見ているというウワサはずいぶん耳にしたが、ミラーさん自身が直接見たり聞いたりしたことはなかった。北朝鮮で韓国のコンテンツに接するのは最高刑に処される犯罪行為だ。北朝鮮の人々はミラーさんに、ソウルに行ったことがあるか、ソウルはどんなところかなどとたずねたりした。ある北朝鮮住民は、彼女がバリの海岸で写した写真を見せると、本当に美しいと長い間見つめていた。彼らはイギリス文化に対してもいろいろと訊いてきた。しかし、性平等や同性婚のような問題に関しては、ほとんど理解不可能に見えた。 ミラーさんの初期の北朝鮮の写真には建物がたくさん登場する。彼女の目には建築の外見やデザインが異色に映ったからだ。やがてすぐに人々に焦点が移り、自分が見ている北朝鮮の人々の日常を創意的な視覚でおさめた。時にはどうしても写真に撮れない瞬間があり、ミラーさんは彼らを尊重するためにシャッターを押さなかった。 最初は本を出す計画はなかった。しかし、イギリスに戻って写真を整理しながら、北朝鮮での思い出が浮かぶことで、自分の経験と感情を振り返りながらこれを多くの人々と共有したいと思うようになった。本は演出のない自然体の写真200枚と16編のエピソードで綴られている。北朝鮮の体制や政治状況よりは、人々に焦点を合わせた。 『北朝鮮、唯一無二の地』(North Korea: Like Nowhere Else)という題目には多くの意味合いが含まれている。 「北朝鮮がどんなところなのかという質問に、簡単に答えるのは本当に難しいです。私の知っているすべて場所、私が経験し見たすべての場所の中に、この世に北朝鮮と同じところはありませんね。外国人にもできることと、できないことが明確に区分されていました。私の本の題目をこのようにつけた理由です」。 ミラーさんは北朝鮮からイギリスに戻った後、韓国を初めて訪問した。すでに北朝鮮で暮らしてみた経験のせいか、より一層胸に迫るものがあり、非武装地帯(DMZ)では特に気持ちが揺らいだという。 「国境は閉ざされていますが、北朝鮮に対する心まで閉ざしてはなりません。北朝鮮にも人々が暮らしているからです」。インタビューの最後に彼女が口にした言葉だ。 キム・ハクスン金学淳、 ジャーナリスト、高麗大学校メディア学部招聘教授

脱北者たちの韓方医

Tales of Two Koreas 2021 SUMMER 154

脱北者たちの韓方医 脱北者たちの韓方医 脱北者初の韓方医師、ソク・ヨンファン(石英煥)院長の「永登浦100年韓医院」は、北朝鮮の伝統鍼術を用いた治療法で知られている。脱北者と中国朝鮮族が彼の北朝鮮式治療の恩恵を受けている。 「 永登浦100年韓医院」の ソㇰ・ヨンファン(石英煥)院長は、脱北から4 年でソウルに韓方医院を開いた。以降20年間、北朝鮮と韓国の韓方医学を融合した方法て患者を治療し、一方で経済的に困難な脱北者の支援もしている。 「永登浦100年韓医院」の雰囲気は他の韓方医院とはちょっと違う。室内の配置は似ているが、患者たちが打たれている鍼が実に太い。細くて長い鍼だけ見てきた人なら怖気づいてしまいそうなほどだ。ここは鍼治療が独特で、北朝鮮の伝統的な鍼術である「テチム(大鍼)」「プルチム(火鍼)」で有名だ。直径0.5㎝ほどの黄金の鍼もある。平壌の高位幹部たちがよく 打っている治療法だという。ソウル文來洞(ムンレドン)にあるこの韓方医院のソク・ヨンファン(55歳)院長は、韓国と北朝鮮両方の韓方医師免許を所持している医師第1号だ。診療室の机の上に並ぶ北朝鮮の医学書『高麗医学』が物語っているようにソク院長の治療は高麗医学、つまり北朝鮮式の韓方療法に基づいている。患者の大部分はソウル市民だが、噂を聞いて尋ねてくる脱北者や中国系朝鮮族も多い。朝鮮族の人々は食事や生活習慣が北朝鮮の人々と似ている部分が多いので、ここの薬と治療法が体質によく合うという。 100年韓方医院が光化門付近にあった当時は、韓国政府の高位官僚などもよく訪れていた。しかし、天井知らずに高騰する賃貸料に耐え切れず、2017年に「光化門100年韓医院」を文來洞に移転し「永登浦100年韓医院」に名前を変えた。院内の広さは以前よりも2倍近く広くなり661㎡(200坪)になった。 もう一つのチャレンジ ソク院長の故郷は北朝鮮の内陸部に位置する両江道甲山だ。彼は199 8 年10月に現在の妻である恋人と一緒に休戦ラインを越えて韓国にやって来た。その後結婚して、現在は大学でコンピュータ工学を専攻する長男、高校生の次男、中学の長女の3人の子供たちがいる。北朝鮮に残してきた両親と兄弟3人をはじめとする家族の消息はつかめなくなってだいぶ経つ。「煙のように消え去りました。忽然と蒸発してしまったそうです」。彼は言葉少なめににそう語った。 脱北当時、ソク院長は現役の軍医官の身分だった。韓国の大尉クラスにあたる北朝鮮軍88号病院の応急室診療部長の職責を負っていた。金日成総合大学所属の平壌医学大学東医学部を卒業し「高麗医師」の資格をもつ彼は、北朝鮮基礎医学研究所で研究員として働いたこともあった。基礎医学研究所はいわゆる「万寿無窮研究所」と呼ばれている。父が護衛司令部(韓国では大統領府警護室に該当)高級軍官だったのでその恩恵を受けたと言う。 彼が北朝鮮の現実に絶望を感じるようになったのは、1994年金日成主席死亡後に地方の軍部隊病院に出張した際、栄養失調で苦しむ軍人たちを見てからのことだった。さらに、外国での派遣勤務を終えて帰国した同僚の医師たちの話を聞きながら、韓国に行かなくてはという思いが頭から離れなくなった。そんなところに今の妻と出会い、一緒に脱北を決心した。第3国を経由せずに、脱北経路に休戦ラインを選択したのは軍将校の身分を活用するためだった。そうだとしても一人ではなく、恋人と一緒の脱北だったので大きな冒険だった。汽車に乗れば検問を受けなくてはならなかったので、通り過ぎるトラックに乗せてもらうなど、数々の手段を講じて平壌からソウルまで2泊3日かかった。 彼は韓国に定着して3年で韓方医師国家資格試験に合格し医師免許を得た。南北両方で韓方医師の資格を得た最初の医師という記録を持ち立てるのは、簡単なことではなかった。当時、脱北者には医師資格基準がなかった。1999年大韓韓医師学会の専門家たちのテストと意見の収斂過程を経て、教育部と保健福祉部から国家試験の受験資格を得た。教会で出会った教授たちから推薦された大学教材と、韓医師国家試験の受験テキストを買って、近くの図書館で深夜まで勉強を続けた。難しい漢字でいっぱいの韓国の韓医師教材を読むのは大変だった。北朝鮮では基礎漢字程度を習っただけだったからだ。1カ月ほど図書館で玉篇(漢字辞典)を相手に奮闘し、ようやく漢字が少しずつ目に入って来るようになった。韓医師資格を取った後、慶熙大学校韓医大学院で修士の学位を得た。 2002年にようやく「光化門100年韓医院」を開き、新たな人生を歩み出した。その後19年間、彼は経済的に苦しい脱北者の患者からは診療費を受け取らずにいる。「具合が悪いと話しても、北朝鮮とは言葉が違うので病院でよく分かってもらえないことが多いと聞きます。私は通じるので患者さんも心配せずに話を聞いてもらえる、と言ってやってきます。私は彼等よりも先にソウルに来て、彼らと同じ問題をすでに経験していますからね。彼らの気持ちは誰よりもよく分かっているので、知らないふりをすることはできません」。 100年韓医院は脱北者の間では「脱北者病院」で通っている。具合が悪くなってたずねて行けば財布を心配せずに診療を受けることができ、また何か問題を抱えていればソク院長からアドバイスを得られるからだ。「南北の韓方医学の最も大きな違いは鍼療法です。北朝鮮の鍼は非常に大きいものです。それでも打った後はすっきりするので、脱北者が乞い願うものの一つでもありますね」 ソㇰ院長は苦労してソウルに定着し、苦学の末に資格証を取り韓方医院を開業した。その過程で韓国社会から受けた支援に報いるために、無料診療などのボランティアを続けている。2004年から毎週続けているボランティア活動は、新型コロナの感染拡大により、いましばらく休止している。 彼が創立し理事長を務める『ハナサラン協会』は現在、韓国と北朝鮮出身の医師・看護師など医療ボランティア40人余りが参加している。 北朝鮮の韓医学に対するプライド ソク院長は平壌基礎医学研究所で心臓・血管系研究員として勤務した経験を生かし、金日成・金正日父子が服用したとして知られている柔心丸、太古丸を直接作ったこともある。この二つの薬はそれぞれストレス疾患と老化防止に効能があるという。 彼は高麗医学に対するプライドも高い。「高麗医師は韓方医学と西洋医学を両方勉強します。西洋医学の外科手術の執刀まで習います。北朝鮮では通常、韓方と西洋医学の両方の検査を一緒に行い、診断を下します。診脈と西洋医学の基本検査をすべて行い、その検査結果をもとに診断を下して、治療は主に韓方で行います。私が高麗医学部を卒業した当時、30人の私の学年の中から一人二人ほどが西洋医学の病院で医師として働いています。教育期間は6年6 カ月で、6カ月間は臨床実習です。韓国でいうインターン過程だと言えます」。韓国のように西洋医学と韓方医学を厳格に分離はしていないということだ。 彼はまたもう一つの違いにも注目する。「北朝鮮ではハングルで高麗医学を勉強します。韓国の韓方医学の教材はほとんど漢文でできており難しかったです。北朝鮮では客観式問題を解くこともありません。北朝鮮の試験はすべて主観式で、答案紙を作成した後には言葉で説明しなくてはなりません」。 그しかし、南北の韓方医学は朝鮮時代の医官ホ・ジュン(許浚、1539~1615)が編纂した『東醫寶鑑』(1610)にルーツがあるという点では同じだ。南北が分断されて以降、発展様相が違っていただけだ。北朝鮮は治療医学が発達した。朝鮮末期の韓方医イ・ジェマ(李済馬、1837~1900)の四象医学をもとに体質を分類し治療する。慢性疾患は韓方治療の対象とする。体質を改善することで免疫が形成され、病と闘うことができるからだ。「北朝鮮は韓方薬の処方がよくできていると思います。治療中心の薬の処方が具体的な体質に合わせて配分がうまくいっています。臨床試験を通じて客観化・規格化ができており、効能も比較的良いほうです。また鍼術も優れています。韓国では刺激を少なくするために細くて小さい鍼を使いますが、北朝鮮の鍼は非常に太いものです。太い鍼がもっと痛いように思いますがそうではありません」。 彼はまた「患者の治療に重要なのはまず第一に本人の精神力で、その次はどんな医師からどんな薬と治療法を処方されたかによって違ってきます」と付け加えた。 さらに「南北双方の韓方医学が同じルーツから出てきており、北朝鮮に優秀な薬材が多く南北で協力研究することが望ましいが、現在はあらゆる環境が整っておらず、希望的ではないので残念だ」とソク院長は語った。 北朝鮮の伝統韓方医学書『高麗医学』。その情報が網羅された『生命を生かす北朝鮮の民間療法』 ソク院長は北朝鮮の韓方医学をきちんと伝えるために、数冊もの本を執筆した。金日成主席が普段行っていた自然療法を具体的に紹介した『金日成長寿健康法』もその中の一冊だ。 ボランティアで恩返し ソク院長は仕事の合間に『生命を生かす北朝鮮の民間療法』(2003)、『登山もし、山参も摘み』(2003)、『金日成の長寿健康法』(2004)、『北朝鮮の医療実態』(2006) など4冊の本も出版した。『金日成の長寿健康法』は日本語にも翻訳され、日本で出版された。今後は遅ればせながら博士号までとる計画だ。 彼が外部の医療奉仕を続けて、もう17年になる。韓方医院を開いて2年目の2004年に、もう一人の脱北者の韓方医師と共に、高齢者を無料診療するボランティアを始めた。「韓国に定着する過程で韓国民の税金をもらい、韓国社会から多くの配慮を受けました。恩返しをするのは当然のことです。それに奉仕活動をしながら私自身にも慰めになります。この上なく気分が良くなるのです」。 「脱北医療人連合会」という名前でスタートしたボランティア組織は、2015年に『社団法人ハナサラン協会』に拡大改編されたが、ソク院長はその間ずっと理事長を務めている。その間にも脱北医療従事者数が増え、主旨に共感する人々も参加したことでボランティアもスポンサーも増えた。韓方医師、理学療法士など医療関係者30人を含めて合計130余人の会員がボランティアに参加している。 どんなことでも1号の重みは特別だ。ソク院長もまた1号の重責を生涯背負い続けなければならないようだ。 キム・ハクスン金学淳、ジャーナリスト、高麗大学校メディア学部招聘教授 ハン・サンム 韓尙武、写真

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異色な地方観光を主導する

In Love with Korea 2021 AUTUMN 32

異色な地方観光を主導する CULTURE & ART--> 異色な地方観光を主導する 全羅北道の農村都市、淳昌(スンチャン)に暮らすレア・モロさんは、より広い世の中を経験したいという自分の願望を、人々と共有したいと思っている。 レア・モロさんは週5日間、全羅南道淳昌郡のツアーバス「風景(プンギョン)バス」でガイドをつとめている。「風景バス」は剛泉山(カンチョンサン)国立公園、伝統コチュジャン民俗村、釵笄山(チェゲサン)など淳昌の主要観光名所を巡っている。 フランスのリオン市近郊にある人口1000人ほどの小さな村、イズロン(Yzeron)出身のレア・モロさんは自分のことを「主流の女性」ではないと紹介する。Kポップグループの中でもBTSやブラックピンクに感嘆はするものの、彼女が一番好きな歌手はインディバンドのセ・ソ・ニョン(SE SO NEON)だ。そしてソウルの名所よりは小都市の田舎暮らしが好きだ。豊かな伝統文化・慣習が残っている全羅北道の地方都市、淳昌(スンチャン)でレアさんは地方公務員として、観光弘報の仕事をしている。観光客は外国人のレアさんが淳昌地域の観光名所を絶賛し、弘報する姿を見て当然驚く。レアさんの韓国語の発音は完璧ではないが、自分が理解した内容を伝えるときには、自然と心地よい雰囲気を盛り上げることができる。淳昌は特産品のコチュジャンと多くの名勝地で有名だが、多くの人々が訪れるような観光地ではない。淳昌郡では2019年、より多くの観光客を誘致し気軽に周辺を観光してもらおうとバスツアーを導入し、そのためのガイドを探していた。ジャズカフェを経営するレアさんの友人が彼女を推薦した。「私がフランス語、英語、韓国語ができるので、韓国人と外国人観光客の両方を誘致するのにプラスになると友人が説得しました」とレアさんは言う。彼女はすでにユーチューブで旅行チャンネルを運営しており、観光産業関連の経験もあった。淳昌郡は彼女のために観光弘報官のポストを作ることを決定したが、外国人を公務員として採用するためには上部機関の許可を得なければならなかった。6カ月後に彼女は弘報官として採用された。地域の人々は彼女を「フランス公務員」と呼んでいる。レアさんは地元で人気が高い。彼女はスクーターに乗って飛び回っているが、スクーターのボックスには作業用の軍手、モンペズボン、カメラと韓服が入っている。彼女は自分の仕事を成し遂げるかたわらで、農家の仕事を手伝わなければならない場合や、ビデオ映像を撮りたいときもあるからだ。また、韓国で暮らす外国人を紹介するKBSのバラエティ番組『隣のチャールス』のようなテレビ番組に出演したのも、弘報の仕事の一部だと考えたからだ。 彼女は、小都市には見るものがないという偏見をなくし、韓国にはKポップやKドラマ、そしてソウル以外にも思いのほか多くの素晴らしい体験ができることを伝えたい。 放浪癖 故郷の村イズロンから淳昌までやって来ることになったのは、旅を愛していたからだった。フランスの田舎で育ったレアさんは、いつも外の世界にあこがれていた。そしてついに幼い彼女は、家族旅行でバリに行くことになり、その時からすべてが始まった。「オートバイに乗ったんです。両親は私と妹を足の間に乗せてくれました。この旅行が私の人生のすべてを変えてしまったのだと思っています」とレアさんは回想する。「旅を通じて世界には異なる外貌の人々、異なる文化、異なる言語があることに気づきました。そして、異なる言葉を学ぶことがより多くのチャンスをもたらしてくれることに気づいたんです」。高校を卒業するとレアさんはオーストラリアで18カ月間働きながら英語を学び、時にはグレート・バリア・リーフでダイビングを楽しんだ。その後タイに行き、そこを拠点として東南アジアを旅した。結局、旅行産業に本腰を入れて、オンライン授業を通じて観光経営の学士号を取得した。この授業の条件の一つがいずれかの国で6カ月間インターンシップをすることだった。韓国人の友達が光州にある外国人用のゲストハウス「ペドロハウス」と旅行カフェを推薦してくれた。2016年韓国にやって来た彼女は、2年間ほどこのゲストハウスで働くことになった。「光州を愛するようになりましたね」と彼女は言う。「私が幼少のころ、歴史が好きだったおじいさんから韓国の歴史について学びました。おじいさんは韓国と北朝鮮について教えてくれました。でも光州や、1980年5月18日に起きた光州民主化運動については全く知りませんでした。光州は韓国の現代史と韓国社会について学ぶことのできる良いところでした」。光州で暮らす間、彼女は全羅道地域をちょくちょく旅行し、特に沿海の島々を含めた田舎を時間がある限り訪れた。しかし、外国人のための観光情報がなかったので、外国人バックパッカーにとって旅は容易なことではなかった。そこで彼女は、ペドロハウスの主人ペドロキム(本名:キム・ヒョンソク)さんと一緒にガイドブックを書くことにした。残念ながら本としては出版されなかったが、その内容はオンラインの『チョルラゴー(全羅GO)』という名前のチャンネルに生まれ変わった。その後、慶尚道地域に対して好奇心を抱いた彼女は、造船業が盛んな町である巨済島の文化センターでもしばらくの間働いた。そして光州に戻ってきた彼女は、もう少し持続的な仕事を願っていた。そんな彼女に淳昌での仕事が舞い込んできたのだった。 母国のフランス語は当然、韓国語や英語もできるレアさんは、主に淳昌を訪れる外国人観光客をガイドするはずだったが、新型コロナウイルスの感染拡大により最近では主に韓国人をガイドしている。韓国人観光客は彼女の韓国語の説明を聞きながら、淳昌の名所旧跡を興味津々に観て回る。ⓒ Lea Moreau 多忙なガイド観光弘報官であり経験豊富なバックパッカーとしてのレアさんは、観光客にあまり知られていないところを発見し紹介するのを楽しみとしている。彼女は小都市には見るものがないという偏見をなくし、韓国にはKポップやKドラマ、そしてソウル以外にも、思いのほか多くの素晴らしい体験ができることを伝えたいという。彼女はそんな淳昌の魅力のひとつとして、韓国で最も長いつり橋の一つが淳昌にあると話す。さらに春には、花見の名所の鎭海や河東のように見物人で混み合うこともなく、心静かに花見気分にひたれる。秋には剛泉山(カンチョンサン)国立公園の紅葉が観光客を魅了する。しかし、彼女が新しい仕事を始めるやいなや、世界的なコロナのパンデミックが押し寄せ、観光は事実上ほとんどストップ状態だ。車体に笑顔が描かれた屋根のないオープントップ型の特別仕様の「淳昌シティツアーバス」は現在、一週間に3回、1日におよそ10人ほどの観光客を乗せて走っている。ソーシャルディスタンスの確保という方針に従い、乗客は全員バスに乗る前に体温をチェックする。ツアーは外国人乗客がいない場合には韓国語で進行する。ほとんどの旅行がバーチャル体験で行われている今、レアさんは広報の仕事をSNSを通じて続けている。毎週一回程度、彼女は『全羅GO』に新しい内容をアップロードし、淳昌郡の公式ユーチューブチャンネル『スンチャン・チューブ』とコラボレーションしている。このような仕事を彼女は最も好きだと言う。「映像撮影が好きなんです。高校に通っていた頃に、うちのクラスはマダガスカルに旅行したんですが、その時の撮影を私がしたんですよ。もちろんあの時の映像の質は決して良いとは言えませんが」と彼女は言う。しかし、彼女の撮影技術が向上しているのは明らかだ。昨年、観光ビデオコンテストで受賞したからだ。150万ウォンの賞金で彼女はパノラマ撮影のためのドローンを購入した。 地域の人々は彼女のことを「フランス公務員」と呼んでおり、レアさんは現在、淳昌郡微生物産業事業所の微生物係に所属する職員だ。淳昌はコチュジャン(唐辛子味噌)とテンジャン(味噌)で有名だが、微生物産業事業所はそのような発酵食品を研究・広報する仕事をしている。おかげでレアさんは、コチュジャンとテンジャンの作り方とその魅力に関して、韓国人と同じくらいよく知っている。 ⓒ Lea Moreau 夢を生きるレアさんは最近、淳昌郡との契約を3年間延長した。「私が一番大切にしているものは、人と会って日常を共有することで、韓国をより深く知ることです」と彼女は説明する。「私が一箇所に留まる最も大きな理由は、私が出会った人々や親しくなった友人たちのためです。韓国人は本当に歓待してくれます。外国人を見ると、特に田舎では、救いの手を差しのべてくれます。私にはそんな出会いが、それ自体が一つの冒険となったんです」。レアさんは自分の韓国語が完ぺきではないのにも関わらず、同僚の公務員が自分に行政システムや仕事の内容についてレクチャーしてくれることを本当にありがたいと思っている。「私に多くの時間を割いて、私を信頼してくれていることを知っています」と彼女は言う。有難いという思いで彼女は一週間に10時間、オンライン韓国語の授業を聞いている。レアさんの人生のモットーは「人生を夢見るのではなく、夢を生きよう」だ。彼女の目下の夢は、韓国での暮らしと旅行についての本を書くこと、旅行のテレビ番組を作ること、地域産業をもっと弘報して地域共同体に寄与することなど、目標は山ほどある。何よりも人々がもっとたくさん旅をして、自分のグローバルな旅を共有できるようにインスピレーションを与える仕事を続けたい、と彼女は言う。 チョ・ユンジョン曺允廷、 コリアナ監修者、フリーランサーライターホ・ドンウク許東旭、 写真

独創的で異質な物語への愛

Interview 2021 AUTUMN 40

独創的で異質な物語への愛 문학 산책--> 独創的で異質な物語への愛 ジョン・ミンヒ(全民熙)さんは1990年代、PC通信網を基盤として登場したファンタジー小説の第1世代に属する作家だ。1999年に連載を始めた『歳月の石』はこれまでに数十巻の作品を生み出し、その中の相当数が日本、中国、タイ、台湾でも出版され大きな人気を得ている。また『ルーンの子供たち』シリーズと『アーキエイジ』シリーズは、ゲームの原作小説となっている。景福宮近くのカフェで彼女と会った。 ファンタジー小説の作家チョン・ミンヒ(全民熙)さんは、1999年パソコン通信の「ナウヌリ」に『歳月の石』の連載を開始し、デビューした。彼女の小説は繊細な描写と抒情的な文体で国内外の多くのファンから愛されている。 小説家チョン・ミンヒさんはソウルで最も閑静な街、大統領官邸からほど近い庭のある家に暮らしている。小学校5年生の子供のいる彼女は一見平凡な主婦、あるいはキャリアウーマンのように見えるが、韓国ファンタジー小説の過去と現在、未来を語る上で欠かせない作家だ。1999年にパソコン通信の「ナウヌリ」に連載を始めた『歳月の石』は、雑貨店を営む18歳の少年パビアンが、父から譲り受けた首飾りの四つの宝石を求めて旅に出る物語だが、400万回のアクセスを記録し、これは現在もファンタジー小説の愛読者の間で、伝説として語り継がれている。作家特有のファンタジー世界観は、ゲーム業界でも認められている。2003年に発売されたネクソンのクラシックRPG(ロールプレイングゲーム)「テイルズウィーバー」と2013年に発売されたXLゲームズのRPG「アーキエイジ」のようなインターネットゲームが、彼女の小説を原作として制作された。 今年でデビュー何年目ですか?1999年から連載を始めたので23年目です。合計3部作からなる『ルーンの子供たち』の1部『ルーンの子供たち−冬の剣』(2001-2009)が2001年に初めて本になって出版されたので、『ルーンの子供たち』シリーズが20周年となる年でもあります。 『ルーンの子供たち』シリーズが大きな反響を呼びました。販売部数は?7巻で完結する『ルーンの子供たち−冬の剣』と9巻で終わる『ルーンの子供たち−Demonic』(2003-2020)を2018年に出版社を変えて改訂版として出しました。その時に推算したところ、正確ではありませんが300万部くらい売れたものと把握しています。 改訂版を続けて出している理由は? 作品のクオリティに気を使っているからですか。ファンタジー小説家のほとんどが作品を書き直すことを嫌がります。私のように何かのきっかけで文章を修正する作家は少数に過ぎません。以前の作品を手直しする時間に新しい作品を書く方が作業の楽しさや名声、収入面でもはるかに良いからですね。私は自分自身が納得するまで推敲を重ねて本を出しますが、時間が経過した後、他の視点で見直すと、補完したいところが目につきますね。例えば『歳月の石』は、2004年に出版社を変えて再出版しましたが、最初の作品なので愛着が大きかったとはいえ、未熟な部分が非常に目につき、到底そのまま出版することができませんでした。万一、あの時に修正せずにそのまま出していたら、それ以降の他の作品も修正することはなかったと思います。 「よくファンタジー小説は、主に作家の想像力でできていると思われますが、実は膨大な資料調査と緻密な研究が基盤となります。そのような事前作業が緻密な構成と繊細な描写を可能にするんです」 チョン・ミンヒの代表作『ルーンの子供たち』シリーズは、1部『ルーンの子供たち−冬の剣』(2001−2019)、2部『ルーンの子供たち−Demonic』(2003−2020)に続いて、3部『ルーンの子供たち−Blooded』(2018−)が現在4巻まで出版されている。繁栄していた古代王国の突然の滅亡から千余年後、諸国と諸勢力が衝突を続ける中で、自らの運命を切り開くために戦う子供たちの物語だ。 改訂版に対する読者の反応は?単純に文章を整えるという水準ではなく、新しいエピソードを付け加えているので読者の間では意見が分かれました。改訂版をまた買わなきゃいけないのかと思った読者は不満に思ったことでしょう。しかし、修正された作品の方が好きだという読者がだんだんと増えており、その前とその後を比較して変わった点を、一目瞭然に整理して共有する読者もいます。 作品が愛され続けている秘訣は何だと思いますか?「ナウヌリ」に連載を始めた20代の頃は、読者を意識せずにひたすら書きたいように書いていました。しかし、意外にも小説が人気を得るようになって、世の中には私と好みの似た人々がたくさんいるんだと考えるようになりました。それなら、私の好みをそのまま反映させても構わないという自信につながりました。それで思い浮かんだままに物語を積み重ねていきました。根本的にファンタジーというジャンルに内在する魅力のようなものではないでしょうか。ファンタジー小説は一つの時代に限られた物語ではなく、それぞれの時代を網羅する普遍性と心に訴えるパワーがあります。 壮大な世界を描いていながらも、ディテールを失わないという評価を聞きます。どうですか?よくファンタジー小説は、主に作家の想像力で出来ているだろうと思われがちですが、実際は膨大な資料調査と緻密な研究が基盤となります。例えば、現実には無い仮想の都市を背景にするためには、人類の都市文化史に対する徹底した調査が先行しなくてはなりません。そのような事前作業が緻密な構成と繊細な描写を可能にするんです。 ファンタジー小説を書くようになった契機は?子供の頃から習作していました。その頃はただ書きたくて書いていただけなのに、あとになって考えてみると、私の書いていたものがファンタジーに属していたんです。このジャンルをきちんと認識するようになったのは、ナウヌリのファンタジー同好会で活動し始めてからです。それ以降、本格的に書き始めました。 今考えてみると、運が良かったのだと思います。1990年代はファンタジー小説が流行し始めた時期だったので、私と時代的なコードが合ったのでしょう。私の個人的な好みが、そんな話が好きな人々と共鳴することで、力を得たのだと思います。また、私は1994年に大学に入学しましたが4年生になった1997年に、韓国は金融危機に見舞われました。大学卒業後、就職先もなく、就職できなくても全然恥ずかしくない時期でした。私としてはどちらにしろ、お金を稼げなくなったのですから、好きなことをしてみる時間が与えられたというわけです。 どうしてファンタジーが好きになったのですか?たぶん、子供の頃に児童用の世界文学全集を読みながら生まれたのだと思います。私は独創的で異質な物語が好きで、例えば『長くつ下のピッピ』シリーズで有名なスウェーデンの作家、アストリッド・リンドグレーンの『はるかな国の兄弟』のような作品が大好きだったんです。『ルーンの子供たち−冬の剣』がその作品の影響を非常に多く受けていることに後で気づきました。 あなたの小説にはどんな特徴があると思いますか?それに答えられるのは私ではないようですね。読者による私の小説世界の批評文をときどき見ることがあります。例えば、ある読者は私の作品を「青少年小説」スタイルだと規定しています。一理ある分析だと思います。今は韓国の読書市場に青少年文学というジャンルが定着しましたが、私が最初に小説を書き始めた頃は、そのようなカテゴリーは存在しませんでした。私が青少年をターゲットに読者層を定めた理由は、前近代の時期にも子供たちは成人式という通過儀礼を経ており、子供から大人に移行する年齢の読者のための通過儀礼の物語を題材にした小説を書いてみたかったんです。『ルーンの子供たち−冬の剣』がそのような構造だと思います。ある子供が親をはじめ誰の助けも受けられない状況に陥るものの、結局最後には、恐ろしくて逃げ出した最初の対象と、対面することになるという内容です。 古くからの読者も多いですよね。『ルーンの子供たち』シリーズの中の2部の最後の巻が出たのが2007年で、3部『ルーンの子供たち−Blooded』1巻を2018年に出しました。10年以上も経ってから出たのです。その間、私の小説を忘れていた読者もいたことでしょう。就職したり、結婚した読者もいたでしょうに、大雪の降った冬の朝、ソウル光化門の教保文庫で開かれたサイン会には500人ものファンが来てくれました。あの時には本当に驚きました。小学生、中学生の頃『ルーンの子供たち−冬の剣』で私の小説に入門し、今や20-30代になった読者が私に会いに来てくれました。 今後のご計画は?すでに今年のスケジュールは一杯です。進行中のゲームシナリオ作業もしなくてはなりませんし、『ルーンの子供たち−Blooded』も書き続けます。 シン・ジュンボン申迿奉、 中央日報記者ハン・サンム韓尙武、 写真

植物が与えてくれる癒しのパワー、ホームガーデニング

Lifestyle 2021 AUTUMN 42

植物が与えてくれる癒しのパワー、ホームガーデニング CULTURE & ART--> 植物が与えてくれる癒しのパワー、ホームガーデニング 韓国人は急速な経済開発と都市化により、庭で植物を育てるという長い間の習慣を失ってしまい、若い世代には土の記憶が存在しない。ところが今や、父母世代の庭園文化は、時の流れとともにインテリアとヒーリングが結びつき、若い世代の間で「ホームガーデニング」という新しいトレンドとなっている。 コロナ禍以降、ソーシャルディスタンスの確保とステイホームの時間が増えて自宅で植物を育てるホームガーデニングが若者層にまで拡大している。オンラインでは様々な植物キューレーションの講座を聞くこともできる。© CLASS 101 ソウル麻浦区に住む会社員パク・ウンジンさん(36)はコロナ禍以降、在宅勤務が長くなりホームガーデニングに関心を持つようになった。最初はソーシャルディスタンスの確保によるステイホーム生活に小さな活力をと、植木鉢を一つ買ったのが始まりだった。それが今ではベランダが緑の植物でいっぱいになっている。現在は、植物の全くなかった家でこれまでどうやって暮らしてきたのかと思うほど、180度変身した我が家の雰囲気に満足している。そして「コロナ禍により不安で憂鬱でしたが、植物の世話をすることで心安らかになり、気持ちが落ち着きました」と語っている。ソウル城東区に住むワーキングママのキム・ギョンソンさん(39)は、偶然ガーデニングの一日講座を聞く機会があり、それ以来植物にはまってしまった。彼女は最初、親の世代が庭で楽しんでいたガーデニングを想像していたが、こんなに多様でトレンディな室内ガーデニングの世界があるのかと驚いたという。家にはペットの犬や猫もおり、彼らは草を見るとすぐに噛んだり食べたりしてしまうので、ペットにも無害な植物を選んで育てている。そんな制約があるにもかかわらず、彼女の育てている植物の種類は非常に多い。「最近は週末農場や幼稚園に行くことができない子供たちのために、ベランダで小さな植物を育て始めましたが、インテリア効果にもなって気に入ってます」とのこと。コロナ禍が終わったら、またオフラインのクラスに登録して本格的にプランテリアを学ぶ予定だという。10年ほど前から定年世代を中心に生まれたホームガーデニングブームが、だんだんと中高年層から若者層に拡大している。「ファリニ」という新造語がそれらを指している。農業を意味する英語の「ファーム(farm)」とチルドレン(children)の韓国語「オリニ」を合わせたもので、もともとは『Real Farm(リアルファーム)』というモバイル農業シミュレーションゲームの入門者を指す用語だったが、最近ではホームガーデニングの初心者を意味する愛称としてより広く使われている。国民の22.3%がアパート・マンションのような共同住宅で暮らしている住居文化を考えれば、庭のないコンクリートの家で生まれ育った若者世代が、手を土だらけにして植物を育て始めたという変化の意味は大きい。 コロナブルーになっている多くの人々が植物を育て、触れることで心を癒している。不安と鬱を軽減してくれるセロトニンのおかげだ。最近、伴侶植物がより注目を集めている理由でもある。© Park Hee-ran 子供たちは家で花壇の世話をすることで自然を経験できる。一戸建て住宅の庭とという固定概念の庭園から、住居形式態の変化にともなってアパート・マンションの居住空間、都心のビルの屋上にまで拡大した。 © Getty Image Korea ボタニックトレンド2018年10月、植物園と公園が合わさったソウル初のボタニック公園『ソウル植物園(Seoul Botanic Park)』がオープンした。オープン2年で累積観覧客数が1千万人を突破した。コロナ禍だということを考慮すれば非常に高い数値だ。私はこの一帯の商業施設の名称が『ボタニック』一色になってしまった現象に注目した。近くのアパートやマンションだけでなく、ホテル、結婚式場、飲食店、コーヒーショップ、不動産屋、ビリヤード、病院、コンビニまで実に多くの施設がこの単語を商号に使っている。今年の初め、金融の中心街ヨイドにソウルで最も大規模なデパート『ザ・現代ソウル』がオープンした。ここは全体の営業面積の49%を室内庭園と顧客の休憩空間としている。商品満載の陳列台で満たされてきた既存のデパートとは全く違った姿を呈しており、デパートインテリアのトレンドを示している。もともとロッテ、新世界、現代の「ビック3」がしのぎを削っているデパート業界では、数年前から「ガーデニング・デイスプレー」の競争が水面下では行われていた。したがってコロナ禍前から徐々に根を下ろし始めたボタニックトレンドが、コロナ禍と相まって本格的にホームガーデニングブームを巻き起こしたと言える。今年1月、国内の大型ショッピングモールのロッテマートによると、コロナ禍により総売上が激減する中でも、ガーデニング商品群の売上は2019年17.6%成長に続いて、2020年にも売上高18.7%の伸び率を示したという。特にステイホームが本格化した2020年1年間に植木鉢と花瓶の売上はそれぞれ46.5%と22.3%増加した。オンラインショッピングプラットホームのインターパークによると、2020年下半期のガーデニング関連の売上額は、前年同期より32%増えた。これは単純に国内だけの現象ではない。アメリカの世論調査機関「Advance Monthly Retail Trade Survey」によると、パンデミック以降、アメリカ国内のほとんどの小売り販売業種が急激な売上減少を経験する中で、ホームガーデニング分野だけは10%近い成長率を記録した。この市場が最近数年間に5%内外の増加率を推移していたことに比べれば、驚くべき変化だと言えよう。 プランテリアと伴侶植物ホームガーデニングの熱気はコロナ禍から生じたもう一つの現象である『プランテリア』ともつながる。プラント(plant)とインテリア(interior)の合成語であるこの用語は、最近のインテリア市場のホットアイテムとして浮上しており、コロナ禍と相まって爆発的な需要を創出した。2020年12月農林水産食品教育文化情報院が発表した「花卉消費トレンドに対するビッグデーター分析結果」を見ると、花卉産業と花関連のオンライン関心度は、2019年コロナ禍依然と比較しておよそ10.3%増加した。この報告書によるとコロナ禍以降、花卉分野の消費トレンドは「伴侶植物とプランテリア」となっている。ハナ金融経営研究所が去年の12月にカード売上データの分析結果をまとめて発表した「コロナ禍がもたらした消費形態の変化」報告書にも同じような現象が現れている。花卉園芸の2020年1、2月の売上が前年同期に比べてそれぞれ8%と10%減ったものの、3月から回復しており、これはコロナの危険性が増しソーシャルディスタンスの確保と在宅勤務が日常化し始めた時期と重なっている。以降、売上は4月から10月まで毎月最小4%から最大30%まで増加した。この報告書は末尾に「プランテリアに対する関心が増加して花卉園芸の売上が増えている」と分析している。ホームガーデニングはコロナ禍以降、ソーシャルディスタンスの確保とステイホームの必要性が相まってプランテリア文化を本格的に拡大させた。そしてもう一つの重要なキーワードが「伴侶植物」だ。BTSをはじめとするスターたちが自分が育てている植物をSNSを通じて紹介し、伴侶植物という単語に言及したことで、大衆の関心が増加した。今や単純に一人暮らしや老年層の孤独の癒しにとどまらず、「伴侶植物」は幅広い関心を誘発している。 関連産業の成長 海外でもいろいろな企業がこれまでなかった様々なサービスや製品を発売し、積極的にホームガーデニング市場に進出している。中国のロボット製造スタートアップ企業のビンクロス(Vincross) は、伴侶植物にロボット技術を取り入れたペットのように動くロボット伴侶植物を開発した。オーストリアのスタートアップ企業ハバート(Herbert)は、伴侶植物のインテリア機能を強調した垂直空間で育つ伴侶植物システムを開発した。ポニックシステム(Ponix Systems)と呼ばれるこの方式は、額縁のように室内の壁面で垂直に伴侶植物を育てることができるサービスだ。それ以外にも、家を空けなければならない時に伴侶植物を預けることのできる伴侶植物専用のホテルサービスや伴侶植物を治療してくれる病院も登場した。さらに伴侶植物の各種症状に対する診断と処方をオンラインで提供してくれるサービスもある。国内では自宅で直接育てて食べることもできる植物栽培器のレンタルビジネスが活況を呈している。発明振興会知識財産評価センターが出した「国内植物栽培器市場の展望」資料によると、2019年に100億ウォン水準だった植物栽培器の市場規模が2023年には5000億ウォン規模に拡大する見通しだ。関連展示産業も活発だ。今年初め、国立世宗樹木園では特別展示会『アンニョン、伴侶植物(Hello, My Houseplant)』が開かれ、またソウルの複合文化空間ピクニックの展示場では、10月まで『庭園づくり(Gardening)』展が開かれている。環境心理学者スティーブン・カプラン(Stephen Kaplan)教授は、人間は蓄積された精神的疲労を回復するために、本能的に自然を求めるという「注意力回復理論」を主張している。植物にはセロトニンを分泌して不安と憂鬱感を軽減してくれる効果がある。ホームガーデニングの魅力にはまった人々は、植物の与えてくれる治癒能力を経験したのだ。コロナ禍が終わった後もホームガーデニングは、新しいライフスタイルとして地位を確立するものと予測される。 オンラインのホームガーデニングの講座は、単純に植木鉢に土を入れて植物を植えるだけではなく、壁掛けの額縁オブジェのようなトレンディな作品も、手軽に学ぶことができる非常に多彩な内容となっている。© CLASS 101 ホームガーデニング講座は、植物キューレーションとも呼ばれるが、これは植物を植木鉢に植える過程だけを指すのではなく、植物とライフスタイル全般を考え、これまで植物との暮らしで失敗した理由、植物で空間を飾る方法なども学んでいく。 ⓒ CLASS 101 チョン・デホン鄭大憲、 社団法人韓国生活庭園振興会会長、月刊ガーデニング記者

株式投資に没頭する2030世代

Lifestyle 2021 SUMMER 143

株式投資に没頭する2030世代 CULTURE & ART--> 株式投資に没頭する2030世代 新型コロナウイルスの感染拡大による憂慮と混沌とした時間が、 金融投資をあおる熱風となった。パンデミックの初期段階で証券市場は 軒並み急落し、普段は株式に無関心だった人々までが 大挙して投資に飛びついた。その中心に「2030世代」がいた。 今年大学を卒業する29歳のイム・スビン(林秀賓)さんは、最近アルバイトで稼いだ30万ウォンで株式投資を始めた。アルバイトで小遣いを稼ぎながら職探しをしているが、インターンの求人はあるものの正規職への就職はほとんど不可能に見える。切迫した状況の中で、まずはお金でも稼ごうと株式に目を向けるようになった。昨年12月に予定していた結婚式を今年の9月に延期した33歳のフリーランサー翻訳者キム・アラム(金娥濫)さんも、しばらく前に株式投資に入門した。ソーシャルディスタンスが続き、結婚式に招待する出席者の数が50人以下に制限されたため、家族や友達のことを考慮して、仕方がなく式を延期することになった。新婚旅行に使おうと貯金していた資金を短期間だけ株式に投資することにしたのだ。彼女は「株式市場が好況なので、数十万ウォンでも稼いで新婚生活にあてよう」と期待している。株式投資に手を出す2030世代が急速に増えており、そのような現象を表現する新造語も相次いで生まれている。最も代表的なものが「東学ケミ運動」だ。若い個人投資家たちがこぞって機関投資家や外国人投資家に立ち向かい、急落した韓国の株式を大挙して買いまくっている状況を表しているのだが、1894年に外国勢力に対抗して立ち上がった東学農民運動にひっかけているのだ。ここで言う「ケミ(アリ)」とは、月給をもらって毎日一生懸命に働いている若い会社員を意味している。また「チュリニ」というのも最近新たに登場した言葉だ。「チュシク(株式)」と「オリニ(子供)」の合成語で、株式についてよく分からずに取引を始めた初心者のことを指している。このような現象は数字にもはっきりと表れている。韓国預託決済院が4月1日に発表した「12月決算上場法人の所有者現況」の分析結果によると、2020年末の個人の株式保有額は計662兆ウォンで2019年末の419兆ウォンから243兆ウォン増加した。全体の時価総額に占める個人の比重も前年に比べて3.6%ポイント増加の28%だった。新しく株式投資を始めた個人はおよそ300万人で、全個人投資家914万人の32.8%に達した。 特に昨年株式投資に初めて手を出した300万人のうち53.5%の160万人が30代以下だった。性別では男性の保有金額が489兆ウォンで女性の173兆ウォンよりも多かった。しかし、増加率でみると女性の保有額が前年比77%(97兆ウォン→173兆ウォン)も増えており、男性の増加率52%(321兆ウォン→489兆ウォン) より高かった。若い女性たちも株式投資に目を向け始めていることが分かる。 最近、株式投資に飛び込む2030世代が急激に増えており、様々なモバイル株式アプリケーションが登場している。証券会社は彼ら「ケミ(蟻) 軍団」をターゲットにした顧客確保のために、各種イベントを開いている。 若い個人投資家たち昨年9月、アメリカの経済専門誌ブルームバーグは「韓国のミレニアム世代のデイトレードへの投資現象」というタイトルの記事で、韓国の若者世代の切迫した投資現象を深層分析した。すなわち、前年対比48%増加した個人投資家の取引が、コスピー韓国総合株式指数の時価総額の65%を占めており、その中の過半数が20代から30代の初心者投資家であり、その中の大多数は株式投資のために借金をしているという話だ。それでは韓国の2030世代はなぜ株式市場にオールインしているのか。第一の理由に新型コロナの感染長期化により経済的に苦しい時期が続き、それなら株式市場で収益を得ようという切迫した心情がある。低金利体制が長期化し、若い投資家たちの資金が行き場を失っていた。それがコロナ禍で落ち込んでいた株式市場に資金が集まりはじめると、株価が大幅に値上がりした。これに投資先を見つけられずに困っていた若者層が飛びついたのだ。実際に2020年1月2日、コスピー指数は2175.17を記録した後、同年の3月まで下落を続けていた。ほどなく各国政府が緊急災難支援のための資金を市場に投入し、ワクチン開発のニュースが相次ぎ、経済回復の兆しに対する期待感が膨らんだことで、株式市場は驚くほど活気づいだ。今年1月4日にはコスピー指数が3000ポイントの大台を超え、現在も高止まりを続けている。それとともに「水が上がって来た時に櫓をこぐ(好機逸すべからず)」という心理が若者世代の投資の原動力となっている。このような現象の背景には、低下している青年層の就業率が大きな要因として働いている。コロナ禍でより一層凍り付いてしまった2020年の韓国の雇用市場は、特に若年世代に過酷だった。統計庁の雇用動向資料によれば、2020年12月現在、20代の就業者は351万人で、これは2019年同期に比べ3.9%pも下落している。コロナ禍によりすべての年齢層の雇用率が減少したとはいえ、10代が1.5%p、30代が1.9%p、40代が1.6%p、60代以上が0.1%p減少したのに比べると、20代の減少率は最も高くなっている。雇用率の低下に従い失業率も上昇し、2020年12月の20代の失業率は前年度の同期に比較し0.9%増えている。 必死の努力就職難に追い込まれた若者世代をさらに絶望させたのが急騰する住宅価格だった。政府の相次ぐ住宅対策にも関わらず韓国の人口のほぼ半数が暮らしているソウル圏のアパート価格は、この数年の間に2倍近く急騰した。マイホームの夢が遠のいた若者世代は、自然と結婚にも消極的となった。実際に2020年全国の結婚件数は、関連統計が始まった1970年以来の最低値を記録した。統計庁の「2020年婚姻、離婚統計」によれば、昨年の婚姻件数は21万4000件で2019年よりも10.7%も減少した。 オンライン書店インターパーク によると、今年1月から3月まで 株式投資・ファンド分野の書籍の 販売数と売上額が前年同期と比較 してそれぞれ5倍増加した。 熱風の波及効果テレビに株式をテーマにしたバラエティ番組が登場してきたのも最近の新しいトレンドだ。以前は、主に経済専門チャンネルでだけ見られた株式関連番組が、今では芸能専門チャンネルでも株取引を話題にした場面に接することが多い。その代表的な例が、昨年9月からカカオテレビが放送を開始した番組『ケミは今日もトゥントゥン』だ。人気芸能人のノ・ホンチョルとディンディンが出演するこの番組は、出演者が実際にそれぞれ開設した証券会社の口座に、受け取った出演料を株に投資する過程を見せるというものだ。視聴者の反応はおおむね好意的だ。特に株式を始めたばかりの若者層の共感を呼び、カカオテレビだけではなくネットフリックスを通じても放映を開始しており、毎回平均アクセス数が200万回に達している。地上波放送局のMBCでも今年3月パイロット番組の形で、株式バラエティトークショーの『ケミの夢』を放送した。2部作で編成されたこの番組では経済専門家と芸能人のパネラーが登場し、株式投資の基本知識を詳しく説明した。一方、やはり地上波SBSの長寿番組・人気バラエティ『ランニングマン』でも、今年2月に特集として模擬株式投資大会編を放送した。 「 チュリニ」(チュシキ:株式) +(オリニ:子供)の合成語で「株 式投資素人」の意味)に対し株の情 報を提供する、ユーモアあふれるバ ラエティ番組『ケミは今日もトゥン トゥン』がシーズン4になるほどの 人気を得ている。 「 就業プラットフォームジャブコリア」の調査によると、 大学生10人中3人が株式投資をしているという。彼らの半分は株式投資を始めて1年未満だと答えた。 ラ・イェジン羅禮眞、中央日報Sエコノミスト記者

マイカーで楽しむ旅

Lifestyle 2020 WINTER 214

マイカーで楽しむ旅 高価なキャンピングカーを購入したりレンタカーを借りなくても、マイカーでキャンプを楽しむ「チャバㇰ(車中泊)」が新たなレジャー文化として浮上している。新型コロナウイルスの感染拡大によりその人気が急増している、非対面型の野外活動だ。 忠州湖の湖畔でチャバク(車中泊)をする愛好家ら。チャバクはキャンピングカーではなく乗用車で夜をすごす旅行のことで、最近の新しいレジャー文化として定着している。 © イ・ジョンヒョク(李正赫) 「最初に1列目の椅子をできるだけ前方に押し出してください。その次に2列目の椅子も同じ方向に倒してください」。 あるユーチューバーが自分のSUV車の内部を指しながら話している。30秒もかからずに内部空間を広くした彼は「これで床にマットを敷きます」と言い、「その前に自分が横になれるのか、椅子を倒した後の空間の縦、横の長さを測ってみます」と付け加えた。続いて車の内部の横幅がおよそ1m、縦の長さは1m95㎝だと測定された。 彼は「この程度なら一般の成人男性も楽に横たわることができます」と言い「皆さんがカップルならば仲良く二人でキャンプを楽しむことができます」とほほ笑んだ。去年7月にユーチューブにアップロードされた車中泊の準備過程を扱ったこの動画は、今年10月基準で再生回数が10万回を超えた。 「車中泊」とは、車と宿泊を合わせた新造語で「車に泊まる」という意味だ。旅に出て車で宿泊するなら、厨房施設にベッドもついているキャンピングカーを連想するものだが、車中泊は必須装備だけを整え、普段使っているマイカーで寝るというものだ。よってほとんどが車内空間の広いSUV車を利用しているが、運転席の後ろの椅子を倒して空間を最大限に広げれば、それなりに一晩眠れる空間を得ることができる。最小限の荷物だけで、キャンプのような感覚を楽しむことのできる新しい旅行形態だ。 トランクをフラットにした後、装飾した車中泊用の車両。若者世代の間では車中泊に必要なマットと装飾用の小物を直接作るのが一種のトレンドとなっている。ⓒ パク・ナムジュン 車中泊には、主に車内空間の広いSUV車両が使われるが、一人旅なら折り畳み式シートの一般の乗用車でも可能だ。ⓒ gettyimages 車中泊の最も大きな長所は、やはり場所を選ばずに宿泊できることだ。わざわざキャンプ場や自然休養林にまで出かけなくても、気が向けばどこにでも停めることができるのだ。 新しいレジャー文化 韓国自動車産業協会の報告書によれば、トラックと乗用車の長所を持ち合わせたピックアップトラックの販売台数が、2017年は2万2000台だったのが翌年には4万2000台の90%以上増加した。またキャンピングアウトドア振興院は、同じ期間に国内のアウトドア産業規模が2兆ウォンから2兆6000億ウォンを記録し、30%以上成長したと発表した。 キャンプ用品市場も今年、爆発的な成長を遂げた。オンラインショッピングモールのSSGドットコムは、6~7月の売上高を分析した結果、車のトランクと連結して使うドッキングテント(カーサイドテント)とテントの中に敷くエアーマットの売上げが直前の2か月よりもそれぞれ664%、90%増えた。キャンプの必須アイテムのアイスボックスの売上げは10倍以上増加した。大手スーパーのロッテマートも同じ期間のキャンプ用品の売上げを前年比で分析した結果「椅子やテーブルなどを含めたキャンプ用品は103.7%、寝袋、マットレスなど寝具類は37.6%、テントは55.4%、キャンプ用の炊事用品は75.5%それぞれ増えた」ということだ。 2018年頃から世間で話題になり注目されていた「車中泊」は、テレビ番組で紹介されて人気に火が付いた。今年3月MBCテレビの代表的な芸能番組の『私は一人で暮らす』は、ある人気俳優が自家用車で海辺に行き、アイドル歌手と一緒にキャンプを楽しむ姿を放送した。彼は車の後部座席を全面的に改造し、車の中に電球もつけて夜も温かな雰囲気を演出していた。この放送が流れた後、ポータルサイトのリアルタイム検索に「車中泊」が登場し、SNSでは「車中泊をしてみたい」という反応が爆発的に増加した。インスタグラムのハッシュタグで「車中泊」を検索すると数十万件の記事がヒットした。 新しい魅力 この新しいレジャー文化が急激に成長したのにはいくつかの理由がある。まず面倒な準備なしに出かけたい時にさっと旅に出られるという点だ。金曜日のアフターファイブに出発し、海辺で過ごすこともでき、山林で翌朝にさわやかな空気を吸うこともできる。映像一つで40万件以上のアクセス数の記録をもつ女性ユーチューバーは、一人で余裕を楽しむには「車中泊」が一番だという。特別な装備なしにキャンプを楽しめる点も人気の要因だ。食事を解決するいくつかの冷凍食品と1本のお酒があれば、一晩のキャンプが完成する。 キャンプ場を予約する必要もない。キャンプ人口が増えたことで、有名なキャンプ場の場合、予約しても数か月も待たなければならない。しかし車中泊ならキャンプ場でなくても、車を駐車できるところならばどこでも一晩を過ごせる。新型コロナウイルスの感染拡大の影響だという側面もある。社会的距離を保つために対面接触が制限されているので、一人あるいは家族で、自然の中でコロナブルーから脱却する役割をしているからだ。ポータルサイトネイバーに基盤をおいている国内最大の車中泊コミュニティー「車中泊キャンピングクラブ」だけでも、今年2月末に8万人だった会員数が9月初めには17万人に急増している。 しかし長所だけではない。車内に敷くマットは多少不便だ。車中泊用のマットを使うにしても枕が変わると眠れないような人は、その不便さで不眠の夜になってしまうかもしれない。今年2月28日自動車管理法が改正され、乗用車もキャンピングカーに改造できるようになったが、床を平らにする作業は簡単ではない。また必ず洗顔やシャワーをしなければらならないような人にとっては、爽快な旅とはならないだろう。 健全な文化 車中泊は、夏は暑く冬は寒いという欠点もつきまとう。車内で長時間、エアコンやヒーターをつけておくと危険だからだ。よって電気を作り出すパワーバンク(モバイルバッテリー)とパーキングヒーターなどの装備を揃えないと、暑さや寒さをしのぐことはできない。また車内に入ってくる虫も問題で、その解決のためには車中泊用の蚊帳を準備しなくてはならない。 必要な装備を一つずつ揃えていけばいくほど、さらに高価な品物を求めるようになる。安楽な車中泊を求めて行けば自ずと生じることだ。ある男性ユーチューバーは、彼が車中泊を辞めた理由としてこのような「装備病」のせいだったとしている。車中泊の最も大きな長所は、何といっても場所を選ばずに宿泊できることだ。わざわざキャンプ場や自然休養林にまで行かなくても、気が向けばどこにでも停めることができる。もちろん大多数の車中泊族はトイレのある公園や海辺、川辺を好む。このような勢いにのり「車中泊聖地」として浮上しているところも多いが、野営と炊事から起きる問題点のせいで入場を制限するところも増えている。一度に多くの人々が押し寄せ、自然を破壊し、ゴミを無断投棄するからだ。健全な文化を定着させることができれば、車中泊は新型コロナの時代に合理的で快適な旅をする手段の一つとなるだろう。

Review

暗闇の中で輝き合う 綺羅星たち

Art Review 2021 SUMMER 140

暗闇の中で輝き合う 綺羅星たち 国立現代美術館徳寿宮の今年初の企画展『美術が文学と出会った時』は、1930-50年代に活躍した芸術家たちにスポットを当てている。特にこの展示は、日本植民地時代と朝鮮戦争という不幸な時代に、画家と文化人の交流がどのような芸術的成果を生んだのかに焦点を当てており、大きな関心を集めた。s 『 人形のある静物』 ク・ボヌン(具本雄1906~1953)71.4×89.4㎝ キャンバスに油彩1937年 三星美術館リウム所蔵 ク・ボヌンは印象派中心のアカデミズムが流行していた時期に、フォーヴィスムの影響を受けて新たな分野にチャレンジした。画面に描かれたフランス美術雑誌『Cahiers d’Art』 からも分かるように、ク・ボヌンと彼の友人たちは西欧の新しい文化芸術の傾向を同時代に享有していた。 1930年代は日本統治がより一層厳しくなった暗黒期であったが、一方では近代化が進み、韓国社会にとてつもなく大きな変化が巻き起こった時期でもあった。特に京城(1946年ソウル特別市に変更)は新文物が他の地域よりも先に流入し、目まぐるしく変化していった。舗装された道路には電車と自動車が走り、華やかな高級百貨店が開業した。そして街には流行の先端を行くハイヒールを履いたモダンガールと背広姿のモダンボーイがあふれた。 現実に対する絶望と近代のロマンが混在した京城は、芸術家たちの都市でもあった。当時の京城の芸術家たちは誰もがタバン(茶房)に足を向けた。中心街の路地に立ち並んだタバンは単純にコーヒーを売るだけの店ではなかった。異国情緒あふれる室内装飾とコーヒーの香りの中に流れるエンリコ・カルーソーの歌を聞きながら、芸術家たちはアバンギャルド(前衛芸術)について討論を繰り広げていた。 カルーソーとアバンギャルド植民地の国民という貧困と絶望も芸術への魂までうち砕くことはできなかった。そして苦難の中で咲いた創作の情熱の陰には、時代の痛みを共有し共に生き抜く道を探し求めていた芸術家たちの友情とコラボレーションがあった。この「逆説的ロマン」の時代を振り返る国立現代美術館徳寿宮での『美術が文学と出会った時』展は、連日多くの観覧客がつめかけている。近代を代表する50 人の芸術家を紹介するこの展示は、タイトルが物語っているように画家や詩人、小説家がジャンルの壁を越えてお互いどのように交流をし、影響を与え合っていたか。そしてどのように芸術的理想を追求していったかを振り返るものだ。 展示は四つの題目に要約できる。「前衛と融合」を題目にした第1展示室は、詩人であり小説家、そしてエッセイストでもあったイ・サン(李箱、1910~ 1937)が運営していたタバン「チェビ(燕)」と、そのタバンを愛した芸術家たちとの関係にスポットを当てている。建築を専攻したイ・サンは、学校を卒業後しばらくの間、朝鮮総督府で建築技師として働いていたが、肺結核を患い仕事を辞めてタバンを開いた。短編小説『翼』と実験主義的な詩『オガムド(烏瞰図)』など、強烈なシュールレアリズムな作品で広く知られるイ・サンは、1930年代の韓国モダニズム文学を開拓した代表的な作家だと評されている。タバン「チェビ」の白い壁には、イ・サンの自画像と幼い頃からの友人ク・ボヌン(具本雄、1906~ 1953)の絵が数点、飾られていたという。特別な室内装飾もない殺風景な空間だったが、そこは貧しい芸術家たちのサロンの役割をしっかりと果たしていた。ク・ボヌンをはじめとして、イ・サンと深い付き合いのあった小説家パク・テウォン(朴泰遠、1910~ 1986)、詩人で文学評論家のキム・キリム(金起林、1908~?)などがその主なメンバーだった。彼らはこのタバンに集まり、文学と美術だけでなく映画や音楽など様々なジャンルの最新の傾向と作品について意見を交わし、そこからインスピレーションを得ていた。彼らにとってタバン「チェビ」は単なる社交の場ではなく最先端の思潮を吸収し、芸術的な滋養を得る創作の産室だった。特にジャン・コクトーの詩とルネ・クレールのアバンギャルドな映画は、彼らの大きな関心事だった。イ・サンはジャン・コクトーの警句を書いたものを壁にかけ、パク・テウォンはファシズムを風刺するルネ・クレールの映画『最後の億万長者』(1934)をパロディ化した作品『映画から得たコント;最後の億万長者』を書き、植民地の現実をウイットに富んだタッチで描いている。彼等の作品に現れている互いの痕跡と親密な関係が非常に興味深い。ク・ボヌンが描いた『友人の肖像』(1935)のモデルは、屈折した印象のイ・サンだ。二人は4歳の年の差はあったものの、学生時代からいつも一緒にいて仲が良かった。キム・キリムはク・ボヌンの破格なフォーヴィスムの画風に誰よりも賛辞を送った人物だった。また彼はイ・サンが27歳の短い生涯を閉じるとそれを悲しみ、彼の作品を集めた『李箱選集』(1949)を出し、これがイ・サンの処女作品集となった。イ・サンもまたキム・キリムの最初の詩集『気象図』(1936)の装丁をしている。さらにイ・サンはパク・テウォンの中編小説『小説家クボ氏の一日』(1934)が朝鮮中央日報に連載された際には、挿絵も描いている。パク・テウォンの独特な文体とイ・サンのシュールな挿絵は、独創的な紙面を作り上げ大きな人気を得た。 『 自画像』 ファン・スルジョ(黄述祚1904~1939) 31.5×23㎝ キャンバスに油彩 1939年個人所蔵 ク・ボヌンと共に同じ美術団体で活動していたファン・スルジョは、静物画、風景画、人物画など多様なジャンルを席巻し独特な画風を築いた。この作品は35歳という若さで夭折した年に描いた作品だ 1920~40年代の印刷美術の成果が展示されている第2展示室。この時期に刊行された表紙が美しい本をはじめとして、新聞社が発行していた各種雑誌と挿絵画家たちの作品が展示された。 『 青色紙』第5集 1939年5月発行 ( 左)『青色紙』第8集 1940年2月発行1938年6月に創刊され1940年2月に、通巻8集を最後に廃刊となった『青色紙』は、グ・ボヌンが編集・発行をしていた芸術総合雑誌だ。文学を中心に演劇、映画、音楽、美術分野を網羅し、当代の有名執筆陣による水準の高い記事を掲載していた。 詩と絵画の出会い小説などの文章に添えられる挿絵の需要は、芸術家たちに一時的ではあったが一定の収入をもたらした。同時に新聞が大衆的でありながらも芸術的な感覚を持った媒体であることを、人々に認識させるのにも一役買ったといえる。洗練された図書館を思わせる第2展示室では、1920 ~40年代に発行された新聞や雑誌、本を中心に当時の印刷媒体が作り出した成果を集大成し展示している。「紙上の美術館」を題目にしたこの展示は、アン・ソクチュ(安碩柱、1901~1950)を筆頭に、代表的な挿絵画家12人の作品が添えられた新聞連載小説を一枚一枚ページをめくって読めるようになっており、一味違った展示構成になっている。当時の新聞社は雑誌も発刊しており、それらを通じて詩に挿絵を添えた「画文」というジャンルが本格的に登場した。「貧しい僕が/美しいナターシャを愛して/今夜は雪がさらさらと舞い上がる」ではじまるペク・ソク(白石、1912~1996)の詩『僕とナターシャと白いロバ』に、チョン・ヒョヌン(鄭玄雄、1911~1976)が絵を描いた1938年度の作品がその代表的な例だ。朱黄色と白の余白が印象的なこの絵は、ペク・ソクの詩にふさわしくおぼろげな情感の中に絶妙な空虚感を醸している。この作品は二人が一緒に制作して、朝鮮日報の文芸雑誌『女性』に掲載された。洗練された言語感覚をもとに郷土色の濃い抒情詩を発表したペク・ソクと、挿絵画家として有名だった画家チョン・ヒョヌンは、新聞社の同僚として出会い、その後も格別な友情を育んだとして知られている。チョン・ヒョヌンは隣の席で仕事をするパク・ソクの横顔を感嘆の声を上げて見つめていたという。真剣に仕事に打ち込む彼の姿を描き、その顔が「彫像のように美しい」という賛辞を短文『ミスター白石』(1939) に書いて、雑誌『文章』に発表した。彼らの友情は新聞社を辞めた後も続いた。1940年、突然満州に旅立ったペク・ソクは『北方から-チョン・ヒョヌンに』という詩を書いて送り、南北分断以降1950年に北朝鮮に亡命したチョン・ヒョヌンは、北朝鮮でペク・ソクと再会し、彼の詩を入れた詩集を出した。その詩集の裏表紙には『ミスター白石』の頃よりも年を重ねた重厚な姿のペク・ソクが描かれている。 植民地の国民という貧困と絶望も芸術家の魂までうち砕くことはできなかった。そして苦難の中で花開いた創作への情熱の陰には、時代の痛みを共有し、共に生き抜く道を探し求めていた芸術家たちの友情と共同作業があった。 『 僕とナターシャと白いロバ』 詩文ペク・ソク(白石、1912~1996) 絵画チョン・ヒョヌン(鄭玄雄、1911~1976) 雅丹文庫提供詩人ペク・ソクが朝鮮日報社から1938年3月発行された雑誌『女性』(第3巻第3号) に発表した詩に、画家チョン・ヒョヌンが絵を付けた「画文」。当時は文章と絵が調和を成した画文というジャンルを通じて作家と画家の交流する機会が多かった。 『 詩人具常の家族』 イ・ジュンソプ(李仲燮1916~1956) 32×49.5㎝ 紙に鉛筆、油彩 1955年 個人所蔵朝鮮戦争直後に詩人・具常の家に居候していたイ・ジュンソプが日本にいる自分の家族を恋しがりながら、友人家族の団らんの様子を描いたものだ。 現代文学社が1955年1月に創刊した文学雑誌『現代文学』の表紙。チャン・ユクジン(張旭鎭、1918~1990)、チョン・ギョンジャ( 千鏡子、1924~2015)、キム・ファンギ(金煥基、1913~1974)な ど。 第一級の画家たちの絵が表紙を飾っている。 画家の文章と絵「二人行脚」を題目にした第3展示室では、1930から1950年代までの時代的背景を広げて、芸術家たちの個人的な関係により焦点を当てている。同時代の作家や画家はもちろん次世代の芸術家たちとの人的交流においても、その人間関係の中心に立っていた人物がキム・キリムだった。彼は新聞記者という職業を十分に活かし多くの芸術家たちを発掘する先頭に立って、評論を通じて優れた作品を紹介した。次にそのような役割を受け継いだのがキム・グァンギュン(金光均、1914~1993)だった。詩人であると同時に実業家でもあった彼は、優れた芸術家たちを経済的に支援した。この展示室の作品のほとんどが彼のコレクションであったという事実は、別に驚きに値しない。 この展示室で多くの観客が足を止めるのは、断然イ・ジュンソプ(李仲燮、1916~1956)の『詩人具常の家族』(1955)だろう。絵の中のイ・ジュンソプは、グ・サン(具常、1919~2004)の家族を羨ましそうに眺めている。朝鮮戦争中に生活苦から家族を妻の実家のある日本に送り出し、一人で過ごしていた彼は作品を売って、そのお金で家族と再会することを乞い願った。しかし、ようやく開催した個展は思い通りにいかず、金を稼ぐことに失敗すると自暴自棄となっていった。当時のそんな心境がこの絵によく表れている。彼の日本人の妻が夫の安否を気遣い、友人のグ・サンに送った手紙も展示されており、戦争のもたらした貧困と病苦の中で、若くして世を去った天才画家とその家族の物語が人々の胸を打つ。「画家の文と絵」を展示している最後の展示室では、一般的には画家として知られているが、文章にも人並外れた境地に達していた6人の芸術家が紹介されている。シンプルで純粋な「もの」の美しさを賛美したチャン・ウクジン(張旭鎭、1918~1990)、生涯にわたり山を愛したパク・コソク(朴古石、1917~ 2002)、独特な画風だけでなく、内面に率直な文章で大衆から愛されたチョン・ギョンジャ(千鏡子、1924 ~2015)などが含まれている。中でも今回の展示の最後に目を惹くのが、キム・ファンギ(金煥基、1913~ 1974)の『全面点画』4点の作品だ。無数の小さな点がぎっしりと散りばめられた小宇宙を間近に眺めていると、逝き去りし作家や画家たちの名前が一人一人思い浮かんでくる。暗闇の時代に綺羅星のごとく輝いていた彼らを、今ようやく一堂に招集したような気がする。 『 18-11-72 #221』 キム・ファンギ(金煥基) 48 × 145㎝ コットンに油彩 1972年文学に造詣が深かった画家キム・ファンギはいろいろな雑誌に挿絵を添えた随筆を発表し、詩人たちとも交流していた。晩年のキム・ファンギの代表作で抒情的な抽象画『全面点画』は、彼がニューヨークに滞在していた1960年代中頃から描き始めたものだが、その時期に詩人のキム・グァンソプ(金珖燮、1906~1977)に送った手紙からもその事が垣間見える。

抽象化される日常

Art Review 2021 SPRING 214

抽象化される日常 ドイツを中心に国際的に活動しているインスタレーション・アーティストのヤン・ヘギュ(梁慧圭)は、日常の中の身近な素材を活用して、さまざまな解釈が可能な作品を発表してきた。最近、国立現代美術館で行われていた展示会では、新たな試みに果敢に挑戦し、さらに表現の領域を広げた。 ヤン・ヘギュは、折りたたみ式ランドリーラックやブラインド、電球などのような身近な素材を活用した作品を発表している。代表的なものとしては、2009年のヴェネツィア・ビエンナーレ韓国館に作家として参加した時の鉄製フレームや扇風機、毛糸などで台所を形象化した作品『サㇽリム(暮らし)』だ。その後もカッセルの現代美術展ドクメンタや、パリのポンピドゥーセンターなどで彼女の作品を目の当たりにできた。 彼女は身近な素材を利用して様々な形態に変化させたインスタレーション作品と、さらにグラフィックデザインを施した壁面をコラボレーションしている。最近の作品には、互いに関連性のないイメージを複雑に組み合わせたものが多く、多少難解にも感じられるが、そのせいで時には「イメージの密度が過度で目に入ってこない」という評価を受けたりしている。これに対して彼女は「難解さ」こそ、自分の作品の特徴だと説明している。 2019年1月、台湾南港展示センターで開かれた「第1回台湾當代アートフェア」に参加したヤン・ヘギュ(梁慧圭)は、特定の歴史的な人物や日常の事物を設置、彫刻、映像、写真、サウンドなど、様々な媒体を通じて抽象的な造形言語で表現した。 『 沈黙の貯蔵庫―クリックされた芯(Silo of Silence-Clicked Core)』 2017、アルミニウム・ベネシャン・ブラインド、パウダー塗装アルミニウム及び鋼鉄天井構造物、スチールワイヤーロープ、回転舞台、LEDなど、電線、1105×780×780㎝ ベルリンのKINDL現代美術センターは毎年一人の作家を選定して、高さ21mのボイラーハウスに単独作品を発表する展示を企画している。2017年9月から2018年5月までヤン・ヘギュの作品がそこに展示された。 同一な対象、様々な解釈 国立現代美術館の展示『MMCAシリーズ2020: ヤン・ヘギュ―O2 & H2O』(2020.9.29-2021.2.28)も例外ではない。展示場に入ると真っ先に目にする、大型設置作品『沈黙の貯蔵庫―クリックされた芯(Silo of Silence- Clicked Core)』だ。題目からして難解なこの作品は、横型のベネシャンブラインドと照明器具を使った高さ11mの大型モビール(動く彫刻)形態をしている。観客はマリンブルーとブラックのベネシャンブラインドとが独自に動く作品の内側と外側を自由に行き来しながら鑑賞し、壮観な規模と色彩が演出する多彩な空間を体験する。 この作品に使われたベネシャンブラインドは、彼女の代表作『ソル・ルウィット反転(S o l L e W i t t U p s i d e Down)』のシンボルと同一な素材だ。展示場内部に移動すると、白いブラインドを使った『ソル・ルウィット反転 』の連作を見ることができるが、題目にあるアメリカのコンセプチュアル・アートのアーティスト、ソル・ルウ ィットの名前から推測できるように、ミニマリズム的な要素が強い。観客は21世紀に過去のミニマリズム様式を繰り返すことに果たしてどんな意味があるのか疑問が生じるかもしれない。 ヤン・ヘギュは作品の素材としているブラインドについて「誰かは西洋的、他の誰かは東洋的だという」と説明している。彼女の話のように西欧的なオフィス空間を連想する人もいれば、あるいは東洋的な竹林を思い浮かべる人もいるだろう。このように同一な対象が、見る人によって観方が変わる現象を表現しようという意図は、他の作品においても容易に見い出すことができる。 2017年メキシコシティのアートギャラリー<kurimanzutto>で開かれた『装飾と抽象』展の全景。 この展示はラテンアメリカで開かれたヤン・ヘギュの 最初の個展だ。 『中間タイプ―拡張 されたW形態のウフフ生命体』 2017  人造藁、パウダー塗装ステンレス鋼天井構造物、パウダー塗装ステンレス鋼フレーム、鋼線、装飾用の布切れ、装飾用の羽 580×750×60cm 『太陽と月の下、言葉を失った大きな目の 山-信用良好者#315』 2017  保安模様の封筒、方眼紙、色紙、サンドペーパー、額縁、接着ビニールフィルム11本  86.2×86.2cm; 57.2×57.2cm; 29.2× 29.2cm 『ソル・ルウィット反転-1078倍に拡張、複製し再び組み合わせたK123456』 2017 アルミニウムベネシャンブラインド、パウダー塗装アルミニウム天井構造物、鋼線、蛍光灯、電線 878×563×1088cm 混ざりあった境界 本格的な展示が広がる第5展示室に入ると、最も良く観える位置に『音のする家の物』の連作が設置されている。これらの作品は人造の藁とプラスチックの紐、真鍮の鈴が主な素材で構成され、金属の鈴が無数にぶら下がっている形態のせいで、一見奇怪な生物体のように見える。徐々に目が慣れてくると、これらの形態がアイロン、マウス、ヘアードライヤー、鍋であることが分かる。 ブラインドを使った作品で東洋と西洋の境界を狙ったとしたら、この作品では無生物と生物の境界を探索している。ヘアードライヤーをカニに、二つのマウスを組み合わせて昆虫の形態にしている。またアイロンを合わせるとハサミの形になる。これらの作品の下に車輪がついており、動かすと鈴の音がする。 作品の右側の壁面には4つの類型のドアの取っ手がついているが、九画形の幾何学的な形態に配置されている。ここで求めている効果も同様だ。取っ手はドアを開くために作られたものだが、それが壁に付くことでその機能が失われている。このような脈絡によって変わってしまった事物の意味を通じて作家は、観客の興味を誘発しようとしているのだ。ただこのような表現方法はすでに100年前のダダイズムの作家たちも使っていた。ヤン・ヘギュがアイロンを交差しハサミの形態を作る遥か昔に、視覚美術家マン・レイはアイロンに画鋲を打ち、その機能と意味を形骸化させている。1921年の作品『贈り物』がそうだ。さらにさかのぼるなら、マルセル・デュシャンが便器を美術館に持ってきて『泉』(1917)と名付けたのもその延長線上にある。 もちろん最近では美術史に現れた特徴的な要素を、時代に関係なくアーティストが好きなように借用する傾向が国際美術界では目立っている。19世紀以前の絵画を借用して抽象化する英国作家セシリー・ブラウンはもちろん、デイヴィッド・ホックニーも自身の偶像であるピカソの作品を堂々と作品に取り入れている。そうだとすれば、コンセプチュアル・アートを借用したヤン・ヘギュの狙いは果たして何なのだろうか。 東洋と西洋、生物と無生物の境界を問う作家が、 今度は現実と仮想、本物と偽物の境界にも疑問を提起し、明らかにしようとしている。 ( 左側) 『真実の複製』 2020、AI(タイプカーストゥ)、ヤン・ヘギュの声、スピーカー、可変サイズ、技術提供ネオサピエンス (右側) 『五行非行』 2020、ポリエステルの垂れ幕に水性インクジェット印刷、アドバルーン、アイレット、スチールワイヤーロープ、韓紙、可変サイズ、グラフィック支援、ユ・イエナ 国立現代美術館の『MMCA ヒョンデ車シリーズ2020: ヤン・ヘギュ-O2 & H2O』 (2020. 9. 29.~2021. 2. 28.)展では、AIで複製した自分の声を使ったり、垂れ幕にデジタルイメージを合成するなど、新たな形態の作品を発表した。 『 音のする家の物』 2020、パウダー塗装ステンレス鋼フレーム、パウダー塗装格子網、パウダー塗装取っ手、車輪、黒色真鍮メッキの鈴、真鍮メッキの鈴、赤色ステンレス鋼の鈴、ステンレス鋼の鈴、金属ロープ、プラスチック紐 (左側) 『音のする家の物―アイロンハサミ』 208×151×86 cm (左から2番目) 『音のする家物―カニ足模様ドライヤー』155×227×115 cm (左から3番目) 『音のする家物―貝ニッパー』 291×111×97 cm (右側) 『音のする家物―鍋重なる鍋』224×176×122 cm 作家は日常的に使われているアイロン、ヘアードライヤー、マウス、鍋の形をもとに素材を互いに組み合わせたり交差結合させて混種器物を誕生させた。 現実と抽象 今回の展示でヤン・ヘギュは、既存の展示では見られなかった新たな形態の作品を発表した。デジタルイメージを合成した垂れ幕作品『五行非行』と人工知能の声が飛び出す『真実の複製』がそれだ。 『五行非行』について作家は「政治的な宣伝物に似た強烈なグラフィックと誇張されたタイポグラフィが特徴」だと説明している。5つの垂れ幕には、韓国伝統カラーの五方色(青、赤、黄、白、黒)が象徴する5つの要素(木、火、土、金、水)の名前が書かれている。垂れ幕の下の方には漢紙で作られた文具がぶら下がっている。この作品は今回の展示タイトル『O2 & H2O』と大きな関係があるようだ。作家は日常空間に存在する空気と水が「O2」と「H2O」で記号化されている点に注目したと言う。現実を5つの要素に抽象化し、彼女なりの方式で表現したということだろう。 一方『真実の複製』は、垂れ幕の間にスピーカーを設置した作品だ。スピーカーからは人工知能技術で複製された作家の声が流れてくる。東洋と西洋、生物と無生物の境界を問う作家が、今回は現実と仮想、本物と偽物の境界にも疑問を提議しようとしている。 ベルリンとソウルの間 1971年ソウル生まれのヤン・ヘギュは、1994年ドイツのフランクフルトに移住してシュテーデル美術大学(Städelschule)を卒業した。2005年からはベルリンに定着して活動しており、2014年にはソウルにもスタジオを開き、ソウルとベルリンを行き来しながら作家活動をしている。2018年にはアジアの女性美術家としては初めてドイツのウォルフガング・ヘッセン美術賞を受賞し話題になった。 コロナウイルス禍の2020年にも世界各地で彼女の作品を見ることができた。ニューヨーク近代美術館のリニューアルオープンを記念した展示の『ハンドル』(2019.10.-2021.2.28)や、そしてイギリスのコーンウォールのテート・セント・アイヴスでは、大規模展示『Strange Attractors』(2020.10.24-2021.5.3)に出品された。 2014年のイ・ブル(李昢)から始まったMMCAヒョンデ車シリーズは、国立現代美術館が中堅作家を支援するために企画した連作展だ。特に今回の展示は、当美術館が企画したヤン・ヘギュの最初の個展であり、40点余りの作品が展示された。

見えないものとの接続

Art Review 2020 SUMMER 220

見えないものとの接続 国立現代美術館果川館が主催した「韓国ビデオアート7090:時間イメージ装置」は、1970年代から1990年代までの韓国ビデオアートの歴史を振り返る意義深い展示であった。ただし、2019年 11月28日から2020年5月31日までの開催期間中に、新型コロナウイルスの集団感染により、長期にわたって観覧が中止になったことは非常に残念であった。 韓国のビデオアートは、西欧と同じ時代に発展してきたが、そのような事実を知っている人々はさほど多くはない。また一般大衆にとってビデオアートといえば、世界的アーティストのナム・ジュン・パイク(白南準、1932~2006)のことしか知らない。「韓国ビデオアート7090」展では、ビデオアートの胎動期である1970年代からはじまり、このジャンルが本格的に熟成する1990年代までの韓国のアーティスト60人の作品130点が紹介された。観覧客にとっては、国内にビデオアートが定着していく全過程を理解する滅多にない機会として、今では国際的に有名になったアーティストたちの初期の作品を見ることができる興味深い機会となった。 『無題』パク・ヒョンギ(朴炫基)、1979 石14個、テレビモニター1台、260×120×260㎝(WDH)国立現代美術館所蔵 『テレビ仏陀』ナム・ジュン・パイク(白南準)、974/2002 仏像、CRTテレビ、閉鎖回路カメラ、カラー 無声、サイズ可変 白南準アートセンター所蔵 実験的美術 1970年代は、韓国現代美術の実験的かつ前衛的な運動が活発に展開されていた時期だった。軍部独裁という暗黒な政治的状況が逆説的に、芸術の前衛運動を触発した点は、非常にアイロニーといえる。ハプニング、設置、写真と映像を持ち込んだ一連の実験的な作業が旺盛に行われていた時代に、最初のビデオアート作業が何人かのアーティストにより先駆的に行われていた。 当時のアーティストたちは、ビデオを新たな独自の映像美学の表現媒体とするよりは、ほとんど前衛・概念芸術のための手段として受容した。代表的な事例がキム・グリム(金丘林)、イ・ガンソ(李康昭)、パク・ヒョンギ(朴炫基)などだったが、これらのアーティストたちは、ビデオという新たな手段を通して時間性、過程と行為、感覚と存在、概念と言語などに関連した事由を視覚化しようとした。例えば、国内の実験美術の先駆者キム・グリムの初期の作品『雑巾』(1974/2001)は、机を雑巾で拭く行為を見せるものだが、雑巾がけが繰り返されるほど、雑巾はどんどん汚くなり、ついには真っ黒になりぼろぼろになっていく過程が圧縮されて展開していく。 韓国での本格的なビデオ操作の先駆者としては断然、パク・ヒョンギをあげることができる。記録によれば、彼は1973年からビデオ作業に取り組んだという。一名『テレビ石塔』と呼ばれる『無題』連作は、実際に石を撮影した映像を一緒に配置することで自然と技術、実在と幻影、オリジナルとイミテーションの問題を探求している。彼は朝鮮戦争の避難の際に、人々が石を拾っては小さな石塔を積み上げて祈る様子を見て強烈な印象を受けたという。彼等にとって石は、物質でありながら同時に念願を投射する文化人類学的な事物でもあった。パク・ヒョンギの作品は、石に対する韓国人の巫俗信仰の片りんだと言える。観覧客は彼の作品を通じて、韓国の伝統美術に内蔵されている呪術性と巫俗性が先端テクノロジーの中で生まれ変わる様子を体験できた。 芸術的な転用 『グッドモーニング・ミスター・オーウェル』は、1984年1月1日に全世界に生中継されたナム・ジュン・パイクの衛星テレビショーを映像で編集した作品で、ビデオアートが韓国に本格的に知られる契機となった。ナム・ジュン・パイクは、自ら光を出すブラウン管が、ただの影に過ぎなかった写真や映画とは違う美学的な性質を備えていることに早くから注目していた。彼は若い頃は音楽を専攻し、実験的な現代音楽家として日本とドイツで活動し、1960年代初めにテレビを任意に操作することで、商業テレビ放送の一方的な情報支配構造を変化させる作業を展開した。1965年以降には、新しく開発されたビデオを初めて美術分野に活用することで、メディアアートの大きな流れを開いた。 テレビジョンに芸術的な可能性を見出したナム・ジュン・パイクは、その装置とイメージを変形させることで、もともとの設計目的とは違う用途に転用したが、彼のこのような想像力を「事物に与えられた機能や固定観念にとらわれずに、すべてを多機能的に解釈し活用してきた韓国人の柔軟で包容的な思考方式に起因したもの」とみる人々もいる。しかし、マルセル・デュシャンが便器を『泉』に変えたように、これは20世紀の現代美術の主な特徴の一つでもあった。 ナム・ジュン・パイクは、テレビという固定されたメディアを使い、造形的な実験だけではなく、哲学的な思惟を可能にし生命力を与えた。今回の展示では見ることができなかったが、単一の走査線で作られた『テレビ仏陀』(1974)は、瞑想的で祭儀的な初期の作品の特徴を示している代表作だ。長い台座の上にモニターが置かれており、その前に青銅の仏像がモニターに向かって座っている。モニターの後ろのカメラが仏陀を正面から撮影し画面に映し出す。仏陀は画面の中の自分を静かに見つめている。この設置作品は、東洋の宗教と西洋のテクノロジーを結合させたものだとして注目された。釈迦が瞑想を通じて修行した目的は、時間と空間を超越した絶対的な概念である「空」であったが、モニター上のカメラの映像は、抜け出ることのできない自分の肉体を反射している。ナム・ジュン・パイクの芸術的な貢献は、まさに東洋哲学や韓国の伝統思想を西洋のアバンギャルド精神に結合させ、現代アートの言語で造形化させた点だ。 『天地人』オ・ギョンファ(吳景和)、1990 テレビ16台、ビデオ&コンピュータグラフィック カラー、サウンド、27分4秒 作家所蔵 ビデオ彫刻 1980年代後半以降、ビデオ彫刻が新たな形式として浮上した。脱平面、脱ジャンル、混合媒体、テクノロジーなどに対する関心の中で本格的に展開されたビデオ彫刻は、1990年代後半まで続いた。最初は何個ものテレビジョンモニターを積み上げたり、重畳させる作品が主流をなし、1990年代中ごろ以降には、物理的な動きと映像の中の動くイメージを結合させたキネティック・アートのビデオ彫刻が現れた。その中でもキム・ヘミン(金海敏)、ユク・テジン(陸泰鎭)などのアーティストは、観念的で実存的な主題を扱っているという点でパク・ヒョンギやナム・ジュン・パイクと同一の脈絡に位置している。 キム・ヘミンは、メディアに対する深い洞察力をもとに仮想と実際、過去と現在、現存と不在の絶妙な境界を演出してきたアーティストだ。その初期の代表作である『テレビハンマー』(1992/2002)は、ハンマーが画面に振り下ろされるたびにグァーンという音とともに揺れ動くテレビモニターを通じて、実際と仮想の境界を行き来する独特な経験を与えてくれる。ユク・テジンは、古家具のようなオブジェと反復的な行為を撮った映像を結合させ、ビデオ彫刻の独創的な領域を開拓してきた。『幽霊タンス』(1995)は、二つの引き出しがモーターで自動的に閉じたり、開いたりの動作を繰り返すのだが、引き出しの中に設置されたビデオ映像には、背中を見せて階段を上り続けている一人の男の姿が映っている。これはギリシャ神話のシーシュポスのように永遠にどこかに上り続けなければならない人間、そしていくらジタバタしても不条理から抜け出すことのできない宿命を感じさせる。 韓国の巫俗がもつエクスタシーと超自然的疎通が、先端メディアであるビデオとつながっているという事実は非常に興味深い。 2. 『幽霊タンス』ユク・テジン(陸泰鎭)、1995 モニター2台、VCR、古家具、85×61×66cm(WDH) シャーマニズム的芸術 アーティストという存在は錬金術師だ。何でもない材料を使い、互いに組み合わせて新しい存在に生まれ変わらせる。彼らは物質の魂を詳しく読み取ることのできるシャーマンでもある。そうして石や木を人間に変形させたり、ありきたりの物質に魂を吹き込み生命が宿った存在にしてしまう。これは人間中心的な思考ではない、すべての物質を人間と対等な存在として見ているから可能なのだ。シャーマニズムはアニミズム的な世界観に基づいている。アニミズムは宇宙を構成するすべての生命体は生きているとみなす。そしてその存在を生かす力を神だとする。シャーマニズムとアニミズムは死と生、闇と光に分かれる二元性の分離と境界をなくしてしまう。シャーマニズムは死の世界と疎通し対話ができるようにする。芸術もまたシャーマニズムのように死と疎通するために、見えない世界を示すために、行けない世界に触れるために始まったものだ。それで私たちは芸術を通じて目に見えるものが支配する世界から抜け出すことができるのだ。 韓国の巫俗がもつエクスタシーと超自然的な疎通のイメージが、先端メディアであるビデオとつながっているという事実は、非常に興味深かった。それは韓国ビデオアートの魅力的な部分だと言える。その事実を今回の展示が気づかせてくれた。

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